新型コロナウイルスの拡散が止まらない。この原稿を書いている令和2年3月9日現在、わが国の感染者数は1,157人(死亡13)であり、その数はこれからも増えていくと懸念される。ちなみに朝日新聞によると中国は80,651人(3,070)、韓国7,041人(48)、アメリカ338人(14)だ。今回の大流行(パンデミック)を振り返ると、以前に発生したMERS(中東呼吸器症候群)やコロナウイルスSARS(重症急性呼吸器症候群)を越えてわれわれの記憶によみがえるのは、やはりあの「スペイン風邪」ではないだろうか。
アメリカ疾病予防管理センター(CDC)ほかの精緻な追跡調査によると、カナダの鴨からイリノイの豚を経由してヒトに変異したウイルスを、第一次世界大戦に向かう米兵が船で欧州へ持ちこんだために拡散したといわれる。1918(大正7)年の春ごろから猛威を振るいはじめ、全世界での死者は2千万〜5千万人といわれ、当時人口5,500万人だったわが国でも実に39万人という、桁違いの犠牲者を出している。医師たちが真っ先に斃れたことが響いて、重度指数(PSI)5という史上最強にして最悪の感染症へと変貌していった。
中央同盟国オーストリアの画家グスタフ・クリムトは、特有の症状が悪化して最終的には脳梗塞と肺炎のため、1918年2月6日にウィーンで亡くなっている。新型ウイルスの感染者としてはかなり早い方で、恐らくスペイン風邪の第一波に早々と冒されてしまったのだろう。当時彼の家には、多いときで15人もの女たちが寝泊まりし、かわるがわる裸体画のモデルをつとめており、その多くとクリムトは愛人関係を結んでいた。彼は生涯未婚であったが、少なくとも14人の婚外子のいたことが知られている。当時のパンデミック警報がどのようなものであったのかは不明だが、少なくともウイルスの強烈な感染力を察知した身近な人々の間では、相当なパニックが生じていたことは想像に難くない。
エゴン・シーレの場合にはまず妻のエディト(写真)が、病原性を強めてさらに合併症を引き起こしやすくなっていた風邪に罹り、シーレの子を宿したまま1918年10月28日に亡くなった。同じウィーン地域なのに、クリムトの死からはすでに8ヵ月が経過しており、第二波の流行で罹患したものではなかろうか。つづいてシーレ自身が同じ症状を呈しはじめ、妻の家族に手厚く看護されたものの10月31日に亡くなっている。発症から死亡までの時間がそれほど長くなかったものか、シーレをしてさえ病の床に伏す人の痛々しいスケッチを残すゆとりなど、思いもよらなかった。だがこの悲劇的な顛末は、近代社会が初めて遭遇したパンデミックの戦慄を象徴するものとして、長らく人々に記憶されることとなる。
一方わが国の劇作家・島村抱月も同じころ罹患し、さらに急性肺炎まで併発して1918年11月5日に東京牛込横寺町の芸術倶楽部の居室で急死している。女優の松井須磨子は、抱月の没後もしばらく気丈に芸術座の公演をつづけていたが、やがて彼の後を追い失意の自殺を遂げるのだった。いわゆる関連死の類いだろう。アポリネールは妻ジャクリーヌと結婚してからわずか半年後の1918年11月9日、32歳の若さでパリに亡くなっている。この病が青年層を集中的に襲う、独得のタイプであったことを如実に物語るものである。
村山槐多は1919年2月ごろに発症している。19日の夜半、なぜかみぞれ混じりの雨の中を外へ飛び出し、翌20日の午前2時ごろ畑で倒れているところを発見される。失恋した女の名をうわごとでくり返していたが、2時30分に22歳の若さで帰らぬ人となる。その後を辰野金吾やヴェーバーが追うのだった。(月刊『ギャラリー』2020年4月号より)
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