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とっても気になるあの展覧会へ「行ってきました」

 

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○ バスキア・黒人差別の大国で(3/4)

事件から一週間、まだバスキアの怒りが煮え滾(たぎ)っているときに、友人であるキース・ヘリングのスタジオの壁に描かれたのが、この作品だったのだ。「DEFACEMENT(汚損)」と大書された下にはマーカーとアクリル絵具で、警官たちの手荒い「職務質問」の様子が生々しく描き出されている。白人であるキースの心にも、さすがに強く響くものがあったのだろう。スタジオ移転の際には、この絵の部分だけを壁から切り取って恭しく額におさめ、引っ越し先の自室に大切に飾っていたという。
細身の締まった黒いシルエットは若いマイケルをあらわし、太ったいかつい男たちはそれを両側から挟むようにして威嚇する鬼のごとき警官を表している。振りかざした警棒は、いまにも青年の頭上に打ちつけられようとしており、バスキアのなかではほとんど唯一の現場状況を想起させる画面となっている。もっともバスキアにはこれ以前にも、警官を描いた作品がないわけではない。「無題(保安官)」(1981)などはひょっとすると、その凶暴性においてマイケル追悼の壁画負けないほどの、率直な描写であったかもしれない。
縞模様の囚人服を着て、王冠と公証人の印章飾りのある男が、ピストルと胸の星印から明らかに保安官と思われる男の目を、まるでフェンシングのように一撃している。囚人が手にしたフォークを振り向きざまに、保安官の目に突き立てたのだ。不意をつかれた保安官の狼狽振りは、あらぬ方向に向けられたピストルや左手によって赤裸々に捉えられている。攻撃の素早さを暗示する烈しい筆遣いが、画面に劇的な緊張感を生み出してもいる。保安官の目からほとばしり出た血しぶきは、行為の残忍さをひときわ強く印象づけずには措かない。
バスキアにはこのほか「ニグロのポリス」、「ラハラ(アイルランド出身の警官に多いオハラ姓に由来した作品)」、「シェリフ」など一連の警察官ものの絵がある。題名には直接表示されていなくても「僕はニューヨークという環境に影響されたアーティトさ」が口癖の画家には、若いころセイモ(SAMO/いつもと同じさの意味)と名乗って路上を舞台とした時期があったのだ。モティーフは路上に打ち捨てられたドアや窓、廃棄されたマットレスなど、ニューヨークを象徴するモノばかりだ。警官たちに追いまわされた日々が偲ばれよう。
もっぱら黒人ばかりをモティーフにしてきたバスキアの絵画は、その制作動機の一つとして「マイケル・スチュアートの死」に端を発した、警官など白人支配層に対する烈しい憎悪といったものを、その根底に秘めていたとしても何の不思議もあるまい。何しろ彼の作品は、その荒々しいタッチで並外れた暴力性、スピード感などを、見る者をギョッとさせるほどのレベルで描き出したものがほとんどなのだから。それらは見る者に対して、ハリウッド映画「怒りのランボー」そこのけのアピール度を誇っていたと推測するのである。
髑髏のように白い歯を剥き出しにした口。髪の毛を逆立てた頭頂。相手ギョロギョロと見据えるアーモンド型の目。そして、すべての関節を異常に押し曲げたような全身の身振りで、常軌を逸した興奮といったものを徹底的に追究している。王冠をトレードマークにし、色彩に関しては赤黄青など原色の乱舞を背景に、過度の陶酔と強大な力を誇示してみせる黒が、いつでも圧倒的に多くのスペースを支配している。バスキア自身が「これまで黒人は現実的に描かれることがなかった。(だから)僕は『黒』を主役として扱う。それは僕が黒人だから。だからすべての絵で黒人を主人公として描くんだ」(「バスキアイズムズ」ラリー・ウォルシュ編)と、高らかに宣言しているのだ。(月刊『ギャラリー』2021年5月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より) 

★★★★★


○ バスキア・黒人差別の大国で(2/4)

この悲劇を聞いてアメリカ社会に詳しい人なら、すぐさま2014年にニューヨーク・スタテンアイランドで起こったエリック・ガーナ―事件を思い出すだろう。何しろエリックは「チョークホールド(腕による首絞め)」で締め殺されるまえに、11回も「息ができない」と叫んでいたのだから。この時も携帯動画が決め手となって、ことの真相が判明している。
さて、人種差別の悲惨な事件が後を絶たないなかで、アメリカにはかつて一人の黒人画家がいた。名前をジャン=ミシェル・バスキア(1960-1988)という。プエルトリコ出身の母親とハイチ出身の父親のもと、ニューヨーク市のブルックリンに生まれている。フランス語圏からの移民の子としてBasquiatの最後のTは発音されない。幸いにも父親の粗暴な性格を別にすれば、アメリカの豊かさを享受しながら、黒人奴隷の歴史とはあまり関わりのない生活を送ってきたようだ。もともと絵が得意で、地下鉄やハーレムの壁にグラフィティをくり返し、しだいにヒップポップなストリートカルチャーの旗手として名を上げていく。
キース・ヘリングやアンディ・ウォーホルといった伝説的ビッグ・ネームと親しく交流する生活からは、アメリカンドリームの優雅な匂いはしても、差別の痛ましい痕跡は感じられない。実際公民権運動などに向けられた共感にしても、特段過激なものはないようだ。そうしたところから自由黒人バスキアには、人種差別とは明瞭な一線を画した純粋に現代アート系のアーティスト、という見方がほとんどだったように思う。だが本当にそうなのか。黒人差別の大国アメリカで、稀にではあれそうしたことが許される余地もあったのだろうか。
答えはノーだ。実のところ、バスキアのごく身近なところでもジョージ・フロイド事件とさして変わらぬ悲劇が、起こっていたのである。バスキアには「マイケル・スチュアートの死」(1983)と題された一点の壁画がある。マイケル・スチュアートはバスキア同様、絵画からデザイン、ファッションと当時の視覚のアートすべてに関心をもった黒人で、1983年当時25歳という若さであった。つまりバスキアとはほぼ同年代の、彼もまたアフロヘアがよく似合うカッコいい青年であった。細身でイケメンのマイケルは、モデル稼業で生活を支えながら、当時イーストビレッジに念願のスタジオを確保したばかりだった。
1983年9月15日の夜、マイケルはジョージ・コンドなどとブルックリンの自宅に戻る道すがら、白人の交通警察官に呼びとめられている。地下鉄駅構内にグラフィティを描いたというのが直接の容疑だった。だが実際に落書きの形跡はなく、もてるマイケルがいつものように白人の女友達と別れ際のキスをしたことが、お咎めの原因となったようだ。こうしてLトレインの一番街駅で、袋叩きの烈しい暴行を受けたマイケルは、昏睡状態に陥り、二週間後にそのまま意識をとり戻すことなく死亡している。
この一件は、バスキアをはじめソーホー界隈を活動の場とする若いアーティストたちを「次は自分の番かもしれない」と心底震え上がらせ、トラウマを惹起する元となった。マイケルとバスキアは共通の友達が何人かいる間柄で、事件当時マイケルはバスキアの元交際相手だったスザンヌ・マロックと交際中であった。何かと助け合うことの多いダウンタウンの絵描き仲間といってよい。バスキアの方はといえば、ようやくアンディ・ウォーホルの持ちビルにスタジオを構え、もはや街角でこそこそとグラフィティに明け暮れる必要はなく、ウォーホルとの華々しい共同制作を始めたころである。まさに破竹の快進撃がはじまったばかりの、青春真っただ中の時期であった。(月刊『ギャラリー』2021年4月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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○ バスキア・黒人差別の大国で(1/4)

のっけから言い訳めいていささか恐縮だが、本編のタイトルについて少々の弁解をお許し願いたい。日本語で「差別」とは、特定の集団や属性の人を言葉や仕草、身分、制度、資格などによって排除すること指す。日頃あまり目立たないところにも攻撃の刃は陰湿に向けられ、その分だけ差別する側には陰険な喜びが生まれ、される側には村八分の苦しみが生じる。ところが英語の「discrimination」は、例えば白人の武装警官が黒人を窒息死させるようなことまで含めて意味しているらしい。そうした行為は日本語では「殺人」といわれる。
アメリカの黒人女性が子供を産み、その子が男の子だと分かると、まず真っ先に教えこむのが「質の悪い警察官に目をつけられないための術」だという。具体的にはパーカーのフードを被らないとか、ポケットに手を突っこまないなどと結構細かい。白人警官と黒人男性はまるで天敵のようだ。警官たちはごく軽いのりで黒人を狙い、次々とやり玉に挙げていく。
2020年5月25日、アメリカ中西部ミネソタ州のミネアポリスで、警官に押さえつけられた黒人ジョージ・フロイドが死亡する事件があった。偽造の20ドル札を使ったと通報があり警官が現場に急行すると、容疑者とみられる男が酒に酔った状態で、近くにとめてあった車のなかにいた。男は車から降りるよう命じられた際、物理的に抵抗したという。手錠をかけられ入念に「とり調べ」を受けた後、彼は病院へ行って死亡したという。
だがこの経緯は、その後防犯カメラの映像と逐一照合され、偶然現場にいた女性のスマホ動画(約10分)がフェイスブックに流されるにおよんで、あらかた警察のでっち上げだと判明したのである。当該警察官デレク・ショーヴァンは、左膝で長時間容疑者の首ねっこを地面に押さえつけていたのだ。その間フロイドは「息ができない、プリーズ、プリーズ」と何度も懇願していたという。容疑者の反応がなくなった後も、ショーヴァンがなお2分53秒に渡って「異変の観察」をつづけていたことが明らかとなっている。
警官は片方の手をポケットに突っこみ、余裕しゃくしゃくだ。カメラマンに向かって「さあ、ゴミ掃除の現場を撮れよ」とばかりに、得意顔でポーズをとってみせている気配さえある。アメリカ社会では黒人差別への加担が、充分に人殺しの動機や口実となることを鮮明にみせつけたシーンであろう。この件に関与した3人も含め、4人の警官は翌日に免職となり、第2級殺人罪で起訴されている。遺族の要請で検視官らが遺体を調査した結果、死因は機械的な窒息によるもので、殺人による死亡と断定されたという。
5月26日のデモは平穏に過ぎた。だが28日になると一部の参加者が暴徒化しはじめ、略奪や警察署への襲撃を開始する。複数の店舗が焼失したため、店舗のオーナーや自警団がデモ隊に発砲して反撃するなど、現場はまるで戦場のようになっていった。これに対しトランプ前大統領、共和党、民主党をはじめ、国民の大半は警察による事態収拾をさっさと見限り、軍隊による鎮圧を支持していたようだ。
当のフロイドには窃盗や薬物所持で逮捕された過去がある。住宅に武装侵入し強盗をはたらいた容疑で、5年の刑を受け収監されていた。事件当日も薬物による酩酊があったらしい。ショーヴァンの方はといえば、マイノリティに対する銃撃に三度関与し、ラテン系市民が蜂の巣状になって死亡している。過剰な武力行使への苦情は、19年で18件にも上る。彼の行為が構造的差別と評される所以である。(月刊『ギャラリー』2021年3月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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艾未未 アイ・ウェイウェイ の大予言・香港はもうすぐ殺される(5/5)

これまで24年間に渡って香港の人々が享受してきた、高度な自治や言論の自由などを守ろうという動きは、政府のどこを眺めても見当たらなかった。極論すれば個人であれ組織であれ、香港に居住していようがいまいが、一旦中国当局が狙いを定めれば、ほぼ無制限に誰でも逮捕し、好き勝手に罰せられるという公算が大きい。林鄭月娥(キャラリー・ラム)長官は、もはや大人しそうな仮面を脱ぎ捨て、香港に「三権分立など存在しない」と明言する。
こうして艾未未がかねてから憂慮していた「一国二制度はもうすぐ崩壊する」という予言は、2020年7月1日の国家安全法の施行によって、不幸にも完璧に的中してしまった。アメリカ、日本、ドイツをはじめとする世界の民主主義国は、慌ててこれに強く反発してみせたが、如何せん意を決して行動するには、あまりにも腰が引けているのだった。先のみえない状況を前に、もはや人々が香港のために選びとれる選択肢は、ほとんど無いといっていい。
ここで鮮やかに思い返されるのは、やはり艾未未がこれまでに制作してきた作品だろう。なかでも私は、「中国の地図」(2006)が帯びている一種神がかり的な透視力に優る作品は、他にないと思っている。なぜならそれは政治的主張とは一応離れた地平で、中国人一人ひとりが抱いてきた祖国への思いをもっとも端的に物語っている証拠物件でもあるからだ。
艾は台湾併合後の、中国の国境線をなぞる木片を、高い足(台座)つきで無数に切り出していく。そしてそれらの木片を、釘一本使わない伝統的な組木の技法によって、まったく隙間のない一個の立体物に組み上げていく。最終的に出現してくるのは中国の地図の形をした平らな高台と、同じく地図の形をくり抜かれた穴のある円筒形である。いずれも少し離れたところから眺めると、襞の多い絶壁にかこまれた地図が、まるで統一を果たした往時の国家そのもののように神々しく浮かび上がってくる。なるほど中国の人々の念頭にある祖国とは、こうした歴史や文化を象ったものだったのかと、いまさらながらに驚かされるのだ。
実際のところ、中国の国境線は他国からの絶え間ない侵略で、近代に至っても常に変更を余儀なくされてきた。香港を例にとれば、178年まえにイギリスへと割譲され、それ以降1997年まで租借されていたという特殊事情により、一国二制度という高度な自治が保証されてきたのだ。鄧小平の「武力行使も辞さず」の勢いに押されたサッチャー首相が、泣く泣く中国への返還を呑んだとはいえ、人々がすぐさま社会主義体制に馴染むとはとても考えられない。ましてや中国政府は、「高度な自治」の証しとして1997年以降の50年間、すなわち2047年までは決して社会主義的体制に組み入れないと、国際社会に約束してきたのである。武力統一はもちろんのこと、なし崩し的な統一も到底認められるものではない。
艾未未は中国人自らが人権に目覚め、香港デモを己れの問題として闘ってきた、進歩的文化人を代表する存在でもある。だからこそ2019年6月に「一国二制度崩壊」の危機が予見されたとき、デモ隊に対してこれ以上過激な対応をしてはならないという思いが、彼の頭をよぎったのだ。一国二制度が崩壊すると万事休す、香港は台無しとなる。だが、いまならまだ間に合うだろう。この辺りで巧いリーダーが現れデモをコントロールしていけば、引きつづき国際社会に擁護してもらえる余地も生まれてこよう。だが艾自身がそれを口にすれば、到底「裏切り者」の誹(そし)りは免れまい。こうしたさまざまな感情の折り重なった深い苦悩こそが、彼に「遠近法の研究:天安門」、「中国の地図」といった、限度ギリギリの傑作群を生み出させてきたともいえるのである。(月刊『ギャラリー』2021年2月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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艾未未 アイ・ウェイウェイ の大予言・香港はもうすぐ殺される(4/5)

2015年にドイツに渡った艾未未は、それまでと比べればまだ穏やかといっていい生活を送っていた。日々の思いを自由にブログへ書きこんでいく。艾はキュレイターのハンス・ウルリッヒ・オブリストに、当局から「われわれは、あなたのブログを監視している」と告げられたときのことを、こう述べている。

 よしこい、これはゲームだ。わたしはわたしの役を演じる。(PCを)ブロックする必要があればブロックすればいい。でもわたしには自己検閲はできない。-中略-彼らは電話をかけてきてこういった。「政治的状況の理由から、われわれはあなたがしている ことを尊重します」 (『アイ・ウェイウェイは語る』(株)みすず書房)

艾の活動が当面は無害と認定されたのか、それとも一瞬で情報が世界を駆けめぐるインターネットそのものを警戒したのかは不明だが、両者のあいだに幾分折り合おうという空気が流れはじめたのは事実だ。だが香港の抗議デモの激化によってその状況は一変する。
事態を深く憂慮した艾未未は、直ちに研究チームを九龍半島へと派遣し、デモの様子を逐一記録すると宣言する。さらにそこで得られた素材を、これからアート作品やドキュメンタリーにも使うつもりだという。香港の大学などを舞台に激化の一途をたどるデモに対し、艾はまたこうも警告した。

1989年、(政府が)戦車を使って天安門広場での非常に平和的なデモを鎮圧し、数百人を殺害したことを忘れてはなりません。彼らは西側が干渉しないことを知っており、西側が「通常通りのビジネス」を望んでいることを知っています。(『美術手帖』ウェブ版) この法案(「逃亡犯条例改定」)が可決されたら、あらゆる香港の住民は危険にさらされます。中国当局は容疑者への逮捕を決めたら、それを簡単に行えるでしょう。(この法案は)中国と香港との境界をつぶしてしまい、「一国二制度」の崩壊につながる可能性があります。  BBC News website, 11 JUN 2019

はたせるかな2020年5月に入ると、武漢で1月6日に発生していた新型コロナウィルスによる国内外の混乱につけこむ形で、全国人民代表大会は一旦とり下げたはずの香港への「国家安全維持法」導入を再び蒸し返し、採択したのだった。これを受け全人代大会常任委員会は6月30日、全会一致で「香港国家安全維持法」を可決・成立させている。法案の骨子は「香港において国家の分裂や政権の転覆、テロ活動、海外勢力と結びついて国家の安全に危害を加える行為を処罰する」となっている。実際にこれをとり扱う出先機関として、中国政府は香港へ「国家安全維持公署」を新設してもいる。
この「国家安全維持法」が、その後真綿で首を絞めるようジワジワと利いてくることは、火をみるより明らかだった。処罰の対象として、まず香港の民主派が念頭に置かれ、世界各国に対民主派制裁を働きかけていく行為が想定されていく。8月には「民主の女神」と呼ばれ、わが国とも関わりの深い活動家・周庭(アグネス・チョウ)が逮捕されている。同じ日に、香港紙「リンゴ日報」の創業者にして民主派の重鎮ジミーライ(黎智英)も電撃的に逮捕された。彼は毛沢東から逃れ、香港で成功した自由人たちの象徴的存在でもある。さらに9月6日に予定されていた香港立法会の選挙も、すかさずやり玉に挙げられる。民主派の立候補を認めなかったり、当選しても議員資格の剥奪が懸念され、挙句のはてには選挙そのものが1年間延期となってしまったのだった。(月刊『ギャラリー』2021年1月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より) 

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艾未未 アイ・ウェイウェイ の大予言・香港はもうすぐ殺される(3/5)

習近平の香港締めつけに真っ向から抗う形で、2014年の民主化要求デモ「雨傘運動」は起こっている。2017年に行われる香港行政長官の選挙をめぐって、中国中央政府は民主派の立候補者を実質的に締め出す方策を決定したのだ。数万人の学生・市民がコーズウェイベイ、アドミラルティなどの繁華街を占拠して抗議したのである。「雨傘」という名称は、催涙弾や催涙スプレーで排除しようとする警察に、デモ参加者たちが雨傘で対抗したことによる。デモは79日間つづいた後、長期にわたる金融街の占拠が市民たちの反感を買い、何も具体的な成果がないまま警察による強制排除を受けて、失敗に終わったのだった。
はたせるかな2017年7月1日、キャラリー・ラム(林鄭月娥)は選挙で当選し、第4代行政長官に就任する。彼女は2019年2月に「逃亡犯条例改定」案を発表した。この改定案は香港警察が逮捕した犯人を、台湾などの他国へと引き渡しできるようにしたものである。ところがこれにより、香港で拘束された犯罪容疑者の身柄を中国当局に引き渡すことも、同時に可能となる。そうなれば香港司法の独立は侵害され、中国共産党が反体制派として目をつけた人物を「犯罪者」にでっち上げ、香港当局に身柄を拘束させた後、さらに中国当局への移送も要求できることになる。
香港市民の権利(一国二制度)が大きく損なわれるという危機感を覚えた市民は、リーダーや指導組織がないまま2019年3月から、デモを継続するようになった。ブルース・リーの「水のようになれ」から水革命などとも呼ばれている。法案の撤回がないことと、警察の対応が異常に厳しかったことを受けて、デモは拡大の一途をたどり一時香港国際空港を占拠するまでになる。6月9日の三度目のデモでは、ついに103万人(警察発表24万人)が香港立法会総合ビルの周辺を埋めつくした。これは実に全住民の七分の一に相当する。
8月に入るとデモ参加者たちは、①逃亡犯条例改定案の完全撤廃、② 普通選挙の実現、
③ 独立調査委員会の設置、④ 逮捕されたデモ参加者の逮捕取下げ、⑤ 民主化デモを「組織的な暴乱」とした認定の取り消し、の五大要求を掲げるようになる。9月4日、キャリー・ラム長官は「逃亡犯条例改定案の完全撤廃」を正式に表明したものの、他の4項目は拒絶したままだった。10月に「覆面禁止法」が制定され、11月4日午前にはデモに参加していた香港科技大学の学生アレックス・チョウ(22歳)が、立体駐車場の縁から転落し意識不明の重体となった。催涙弾を避けようとして転落したとの情報もある。アレックスは結局8日に搬送先の病院で亡くなったのだった。
11月11日、銃を手にした警察官が北東部・西湾河(サイワンホー)の交差点で、男性ともみ合う。そこへ黒いフェイスマスクを着けた別の男性が近づくと、警察官はこの男に向けて至近距離から発砲。弾は胸部か胴体に命中し、男性は目を大きく開いたまま路上に倒れた。病院当局よると重体で、ただちに手術を受けたという。また、政府支持の男性がデモ参加者たちと口論の末に、可燃性の液体をかけられ火をつけられるといった事態も発生した。14日には、清掃員として働いていた70歳の男性がお昼の休憩をとっていたところ、デモ隊と中国政府支持派が衝突し、覆面の暴徒が投げたレンガが頭に当たり死亡した。
香港政府は声明で、市民たちに冷静かつ理性的になるよう呼びかける。もしその後中国人民軍や人民武装警察が投入されると、このデモが香港版の天安門事件へと発展していく可能性すらないとは、いい切れないのだった。(月刊『ギャラリー』2020年12月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より) 

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艾未未 アイ・ウェイウェイ の大予言・香港はもうすぐ殺される(2/5)

慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの艾の「二本足のテーブル」にしろ、「三本足のテーブル」にしろ、自らの足だけで立てないテーブルは、壁に別の足(つっかえ棒)を出してどうにか転倒を免れている。守られるはずの国家から逆に迫害を受けてしまう己れ自身と、どこかで交差するような危うい表現であった。
艾未未はまた言葉遊びが好きで、しばしば駄洒落やユーモアを武器に中国政府をするどく批判する。というより言論の自由が与えられていない社会では、隠喩や駄洒落・小噺などを駆使した辛辣な諷刺によって体制を揶揄するよりほかに、手が残されていないのだ。
天安門事件から満20周年を迎えた2009年6月5日、彼は素っ裸になってジャンプし「アルパカの縫いぐるみで股間を隠す」という奇抜なパフォーマンスを実行する。中国語で「アルパカが真ん中を隠す/草泥馬擋中央」と発音すると、ほんの少し声調を変えただけで「ファック・ユア・マザー中国共産党」の意味になるのだという。中年男の思いがけない雄姿に目を奪われているうちに、批判の矛先はいつしか忘れ去られているという寸法だ。
艾は自らを「特別優れた人間でもなく、いくらか面白いことをする鬚を生やしたデブに過ぎない」という。そんな彼が思ったことをいい、素直な行動をとっただけで反政府とみなされ、躊躇なく逮捕されてしまう。理不尽はとどまるところを知らなかった。中国のアーティストたちのなかには「(当局は)すでに現代アートに対して譲歩し、ある程度寛容になった。ゆっくりと好転してきているのだから、私たちは十分辛抱して体制側に時間を提供すべきだ」と考える者も少なくない。それに対し艾は、こう反論している。
そんなことを言えるわけがない。今日と昨日では、現代芸術の接触する問題は異なっている。あの極めて貧しい時期、独裁はとても残酷で、いかなる声も出させはしない。それなのに当時の彼ら(アーティスト)は理想主義的なものに満たされていて、体制に向かって、民主と芸術を要求し、体制は当然厳しく彼らに対応した。今日の体制は現代芸術に対してもう興味はないのだ。その最大の力は、経済の中からどのように最大の利益を獲得するか、自らの合法性を強化するかにそそがれている。 (『アイ・ウェイウェイ スタイル』)
創作の場でも、直径1メートルのボウルを無数のパールで満たした「1杯の真珠」(2006)という、贅沢の極みのような作品をつくっている。こうした一連の活動がほぼ反政府と見なされたようで、艾は2011年4月3日に北京国際空港から香港へ向かうところを何者かに拘束され、行方不明となった。当局に81日間監禁された後、一年間の保釈期間中は自宅に軟禁される。翌年6月22日に仮釈放となるが、パスポートは依然として取り上げられたままだった。それが返却されたのを機に艾は2015年にドイツへ渡り、べルリンで暮らしはじめる。ベルリン芸術大学の客員教授も務めはじめたのだった。
他方、習近平は2012年党中央政治局常務委員に任命され、党の最高職である中央委員会総書記に選出されている。つまり集団指導体制から独裁体制へと移行しはじめたのだ。このころから香港への「愛国教育」導入にもしだいに熱が入っていく。艾にいわせれば、いつかどこかでみてきたような無責任体制のはじまりだ。翌年3月には、党・国家・軍の三権を正式に掌握する中国国家主席ならびに国家軍事委員会主席となり、「一国二制度」に関する白書で香港への統制を強化している。そして、それらを境に香港、台湾、南シナ海などへの締めつけは、容赦なく強まっていくのだった。(月刊『ギャラリー』2020年11月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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艾未未 アイ・ウェイウェイ の大予言・香港はもうすぐ殺される(1/5)

慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの現代中国を代表する美術家・艾未未(アイ・ウェイウェイ)が、ニューヨークへ渡ったのは1981年であった。その滞在中の1989年6月4日に、北京で天安門事件が発生したことは偶然といって済ませるには、あまりにも符牒が合い過ぎてはいないだろうか。とにもかくにも艾は、米国にいてさえそれを黙視することが出来ず、早速に反対の狼煙を挙げるような市民活動をくり広げているのである。
あなたは知っているかどうか、私がニューヨークにいた頃、市民記者にしろ、維権(権利擁護運動)にしろ、私が最も早く始めたといえるだろう。そう、湾岸戦争反対デモ、同性愛蔑視反対デモ、地方維権運動、全てに私は参加した。(『アイ・ウェイウェイ スタイル』)
詩人である父・艾青の病状が悪化したため、彼がやむを得ず中国へ戻ってきたのは1993年になってからのことだった。祖国では、ヘルツォーク&ド・ムーロンに請われて中国国家体育場、通称「鳥の巣」スタジアムの設計に参画している。だが大きな国家プロジェクトへの政府の締めつけは厳しく、業を煮やした艾は計画から手を引き、北京オリンピック開会式への出席を拒否している。また開会式を演出したスピルバーグ監督や、張芸謀らもこっぴどく批判した。考えてみれば、このころから艾の体制批判の姿勢はしだいに鮮明となっていったのだ。
2008年5月12日、四川省の汶川県で突如マグニチュード8の大地震が発生する。約9万人の死者・行方不明者が報告されているが、なかでも学校の倒壊によって多くの子供たちの命が失われ、被災地の通りには彼らの布製のランドセル(バックパック)が散乱するほどの悲惨さだった。救援作業が一段落すると、艾はただちに亡くなった5,196人の子供たちの名簿作成を含めた、公民(新市民)調査にのり出す。だが当局はそれを認めず、執拗に妨害をくり返しては、ただひたすら被害実態の調査と解明を阻止しようとするのだった。
艾は叫ぶ。「誰も謝ることはない。集団で消滅するがいい」。「天真にして純粋な子どもたちがこの世を信じられず、人類に絶望する。そのような日がもしあるとすれば、それは今日だ」、「いつも人民に対して責任を負うというが、実際はどうだ? 何事にも何の責任も負わず、献身を拒み、過失をごまかして、徹底的に腐敗して、絶対的な特権を強奪する。すべての権力が統治者のものとなり、すべての権力はその統治を守るために行使される」。
調査を先導した作家のひとり、譚作人が国家政権転覆扇動罪に問われたとき、艾未未は彼の弁護のために成都へ向かった。だが2009年8月12日の深夜、投宿していた成都市安逸一五八旅館を警察に襲われ、右頭部を烈しく殴打された。内出血が確認され、9月15日にはミュンヘンの病院で手術を受けねばならなくなる。もはや彼にとって中国政府はまったく信じられる相手ではなく、両者の溝は疑う余地がないほどに広がっていったのである。
翌年の展覧会「アイ・ウェイウェイ -何に因って?」で艾は、「蛇の天井」と題する新作を発表している。小学生用から中学生用まで、子供たちのバックパックを大きさの順につなげて一匹の巨大な蛇とし、それを森美術館の天井いっぱいに這いまわらせたのだ。亡くなった子供たちへの鎮魂はもとより、やり場のない怒りを怪物の徘徊に託したのだった。
この時期の艾はまた「二本足のテーブル」(2005)といった、自らの足だけで立てないたいそう皮肉っぽい作品も制作しているのだ。(月刊『ギャラリー』2020年10月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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