江戸中期の京都にあって、「わび」だ「さび」だと打ち沈んだ暗い画面にばかり向かおうとする心情に、キッパリと別れ告げた男がいた。老舗の青物問屋「桝源」の四代目当主伊藤源左衛門、別名若冲である。
生業をはじめ、広大な所有地から上がってくる潤沢な地代や家賃を使って、持てる名声、権力の限りをつくし、絵絹のうえに己が思いを実現させようとトコトン努力している。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革に揺れる江戸を尻目に、上方ではちょいと一味ちがうプラグマティズムが盛り上がっていたといっていいだろう。
四十にして家督を次弟に譲ったのも、隠居などという後ろ向きの発想ではない。もう一段高いところから問屋業の規模拡大を目指し、もって京の人々に前人未踏の青物アート≪動植綵絵≫をみせつけようとしたためではなかろうか。彼のモザイク画「鳥獣花木図屏風」を眺めながら、ふとそんな思いにかられた。 |