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とっても気になるあの展覧会へ「行ってきました」

 

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○「ジェームズ・アンソール ― 写実と幻想の系譜 ―」

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仮面 ―― 何と魅惑的な響きに満ちた対象なのだろう。近現代人は仮面によって他人を脅したり、誑(たぶら)かしたりするばかりではない。むしろ外界に対し、あまりに醜い己れを隠すため、しばしばこの便利な小道具を用いてきた。この小賢しく見え透いたツールに、あまりにも長く慣れ親しんだため、もはや一刻としてそれなしには生きられなくなってしまったといってもいい。
批評家ロベール・デルヴォアよれば、アンソールほど美術史上の規範に素直だった画家はいないらしい。この「陰謀」1890年カンヴァス・油彩 という作品(写真部分)では、敬愛してやまないルーベンスの宗教画に構図を借りているといわれる。だが、そこに描き表されたのは男の主人公への陰謀を企てている人々の果てなき執念だ。仮面の上にさらに被せられた何枚もの仮面。もはや素顔がどのようなものであったのかすら判然としない、恐るべき人間世界の描出である。
(損保ジャパン東郷青児美術館、〜H24年11月11日)

★★★★★

 

○「大英博物館 古代エジプト展」

古代エジプト文明は、その美術が端的に示しているように、きわめて明快精緻な印象を与える。複雑ではあっても厳格に様式化されているからだ。ハヤブサ頭やジャッカル顔を持つキャラクターがあらわれてきても、その本性はつまるところ人間そのもの。つまりギリシャの人間主義の源が、ここに認められるかもしれない。
それは紀元前10世紀、テーベを中心に上エジプトを支配したアメン大司教パネジェム2世の娘ネシタネベトイシェルウために、史上最長の「死者の書」/(通称)グリーンフィールド・パピルスがつくられていることでも、よく理解される。
彼女が死後冥界の旅を経て、無事に来世で復活するため、実に全長37メートルにもおよぶトラベル・ガイド〈ペレト・エム・ヘルウ〉が用意されたのだ。本展ではこの「死者の書」に焦点を合わせ、その徹底的な解明が試みられる。明らかにされたのは天地創造、生前の行為による死者の判定、ワニやヘビの邪魔立て、200の呪文に留まらない。
(森アーツセンターギャラリー、〜H24年9月17日)

★★★★★

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○「吉川霊華展」

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会場に入ると、まず斜め置きされた「神龍図」の大画面に驚かされる。これが、あの御仏たちを艶かしい線で描きあらわしてきたデリケートな画家の、もう一つの本領なのだろうか。それにしても墨と金彩の響き合いが素晴らしい。
吉川霊華(本名・吉川隼ひとし、1875−1929)は東京・湯島に生まれ、橋本雅邦や小山正太郎に学んでいる。が、いまひとつ納得しないものがあったようだ。やがて松原佐久を通じ復古大和絵の大家・冷泉為恭に出会うにおよんで、ようやく己の世界に目覚めていく。以後山名貫義、小堀鞆音らの有職故実を貪欲に吸収し、古代中国さえ自由に行き来できる画境を得ることになる。
そしてこの「離騒」(写真は双幅の部分、1925年)に至り、流麗な春繭糸の線で大観、春草等が切り拓いた近代日本画の重要な一面を継承していくことになる。やや地味ではあるが、決して看過し得ない貴重な足跡というべきだろう。
(東京国立近代美術館、〜H24年7月29日)

★★★★★

 

○「近代洋画の開拓者 高橋由一」展

数多くの風物を描き残した高橋由一。なかでも「鮭」(写真・重要文化財)は、明治美術の愛好家たちから親しみを込めて「シャケ」と呼ばれ、人気絶大である。
だが、この作品のまえに立ったとき、われわれが妙に胸騒ぎを覚えるのもまた事実だ。それはよく言われているように、この作品が西洋の油絵技法によって描きあらわされた最初の傑作だからではない。鱗一枚一枚のテカリまで感じさせるほどの、並外れた迫真性がこもっているからではないだろう、と私は思うのだ。
つまり西洋の絵画技法=素描・水彩・油絵・テンペラ・フレスコなどを初めて修得した人々は、それでもって自分の周囲をどうながめ、どう表せばよいかまでは学び得なかったのである。(日本画にはむろんのこと、四季折々の画趣を描きあらわすという重たいシキタリとお手本が用意されていたが…)
仕方なく由一は、目の前にぶら下がっていた一尾のシャケを描いたのだ。描くまえに鰓下の美味しい部分を切りとって、まずはお茶漬けにして食べたのか、それとも描いた後にその塩辛さを実際に確かめたのか。大事に食べている己の生活こそ、日本の画趣でもなく、さりとて西洋風俗でもない明治洋画の「新巻にされた現実」だという気がしてならない。
(東京藝術大学大学美術館、〜H24年6月24日)

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○「毛利家の至宝」展

雪舟等楊筆の「山水長巻(四季山水図)」(写真)は、1486年(室町時代)の作品なのに、どうして茅葺屋根の民家がまったく見当たらないのだろう。当時はむしろ珍しかっただろうと思われる瓦屋根ばっかりだ。石橋の形も異様である。そして釣舟がみんな屋形舟になっている。登場してくる人物たちは裾の長い衣を着て、ことごとく細帯をしている。どこか普通ではない。
つまり、これは日本の風景ではない。南宋の画人・夏珪の作品に倣ってあらわされた、彼の国の理想郷ではないだろうか。現に雪舟は、応仁元年明に渡航してもいる。
長巻図は、風景から印象的なシーンだけを抜き取って巧みに再構成されている。つまり16mという長さのなかに、実はその何倍もの空間を重層的に入れこんでいるのだ。そしてその不連続は、連綿とつづく岩壁の、何と中途での「描写放棄」という意表を衝くカット技法によって、きわめて強調されている。
本来巨岩によって密閉されているはずの重苦しい空間を、逆に虚の余白へと開放してみせる。こうした手法のなかで観者の視覚は、いつしか雪舟−夏珪の絵画的「嘘」に呑みこまれていく。
(サントリー美術館、〜H25年5月27日)

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○「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」

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クレメント・グリーンバーグの推奨を受けるまでもなく、会場を一巡すれば「インデアンレッドの地の壁画」(1950年、テヘラン現代美術館)がジャクソン・ポロックの代表作だと分かる。地色が赤っ茶けていて、その上に垂らす絵具は白い。だからインパクトがひときわ強烈なのだ。
これは歴史上、もっとも絵画から遠い手法「ポーリング」ないし「ドロッピング」、つまり絵具のブチ撒けでつくられた絵だ。つくった男がまた、アーティストからもっとも遠い風貌をしている。銜えタバコといっても、いまにも唇から落ちそうな危うい銜え方だか、タバコの紫煙に目をしばたたかせながら、トラックの深夜便でも運転しそうな面構えでカンヴァスの脇に立っている。前ではない。何しろイーゼルはもう無いのだから。
そんなポロックが絵のすべてのルール、いま風にいえば〈アートの流儀〉を根底から覆してしまった。新たに出現したのはハイアートか、ポップか、キッチュか、サブカルか…。62年後の日本で、ことは再び烈しく沸騰しはじめる。
(東京国立近代美術館、〜H24年5月6日)

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