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とっても気になるあの展覧会へ「行ってきました」

 

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○菊地武彦―天円地方―

菊地武彦―天円地方―

菊地武彦の作品展がいまREIJINSHA GALLERY で開かれている。聞けば、井上画廊とアートギャラリー閑々居でも同時に開催されているという。一人の作家の作品が、銀座近辺でいちどきに三か所も展示されているというのは尋常ではない。この作家がいま、乗りに乗っている何よりの証拠だろう。
私自身は、彼の絵をみた瞬間「これは実際の土で描かれている作品ではないか」と思った。それほど強烈に、土そのものを感得したのである。

土を描く。言葉でいうのは簡単だが、これを実践するのはなかなかに難しい。 だから真面目くさって土に立ち向かう人には、滅多にお目にかからない。無謀にもあえて挑戦するというなら、土そのものを画面にぶちまけるしかないのではないか。油絵具も水彩もアクリルも岩絵具も超越した、本当の土に負けない絵具でもって。だが、そんな画材はどこにもないのだ。まずはそこからだ。
菊地は土を叩き、重ね、滲ませる。まるでリトマス試験紙の上にのばすように、紙の奥深くに浸透させる。だから土を手際よく扱うというのとは、ちょっと違っている。なにせ何百万年も生命の揺り籠だった相手だ。万物は永らくそのなかで蠢いてきたのだ。だから土をわざときれいにみせようとはしない。きれいごとの「美術」などにはしない。きれいな土など、実は誰も望んではいないのだ。
しかし、だからといって土を穢してはなるまい。土を犯してはならない。土に怪しきものを隠しこんではならないのだ。あるがままの武骨で素っ気なく、悪意からも善意からも解き放たれた、気高きままにしておくのがいいのだろう。それこそが菊地武彦の作品にただよう、そしてわれわれが永らく待ち望んできた真っ正直な絵画というものだ。

★★★★★

この文章はREIJINSHA GALLERYとのタイアップによって執筆されましたので、次のところにも掲載されています。
ギャラリーページ:  http://www.reijinsha.com/r-gallery/38_kikuchi.html
Facebook:  https://www.facebook.com/events/412060088937201/


○大変なものを見てしまった。

1945年12月〜1949年12月。宮崎進は東北満州・牡丹江でソ連軍にとらえられ、コムソモリスク付近のゴーリン205分所、いわゆる収容所/ラーゲリに収容された。
通常それは65〜69年まえの「戦争」という歴史の事実として語られる。だが、ここで提示されているのは明らかに歴史ではない。ズタ袋で覆われたパネルにせよ、木の塊にせよ、ここにあるのは歴史でも鎮魂でもなく、いまだ克明に繰り返される現実の「光景」だ。
なまじ目撃したのが視覚の並外れた表現者であったばかりに、それらの結晶は決して風化することがない。美術を忌避し、放逐さえしている。従ってその前に立つ者は追体験ではなく、実体験を迫られる。

大変なものを見てしまった。

展覧会を担当した籾山昌夫・主任学芸員によると、当時宮崎進が一番苦しかったのはソ満国境地帯にひろがる最前線の泥土を這いまわっていたときだという。「黒い風景」(1993年)が示す果てしない泥また泥。ゴーリンへ送られたときは、かえってホッとしたという。これでひとまずは生きられると。五味川純平の「人間の条件」の、さらにはるか上をいく体験だ。
画面にしばしば登場してくる縦横の直線は、ラーゲリの鉄格子を表しているという。そして空を飛ぶ鳥の自由、シベリアの大地を突然のように埋めつくす血のごとき赤い花。死んでいった戦友たちの顔。シベリアから命からがら帰ってきたら、懐かしい思い出の地広島は原爆で、それこそ何から何まで焼き尽くされていた。虐殺と戦慄のドンデン返し。
どれもがリアルであるが故に、救いようもなく分断されている。そしてそのすべての裂け目から、死と生が噴き出してくる。藤田嗣治の兵士の山とはまた異なった、美術ばかりか人間さえも立ち入ることのできないこうした営みを、一体われわれはどうすればいいのだろう。(『立ちのぼる生命 宮崎進展』神奈川県立近代美術館 葉山、〜2014年6月29日)

★★★★★

本稿は「ギャルリー東京ユマニテ」の温かいアドバイスと、資料提供のもとに執筆されました。従いまして、同ギャルリーのHPならびにSNSなどにも掲載させていただいております。 詳しくはこちらから⇒ 

[Exhibition Essay]
I Saw the Unspeakable
Jun Teshigawara (art critic)

December 1945 to December 1949. Shin Miyazaki was taken prisoner by the Soviet army at Mudanjiang in northeastern Manchuria and interned at Golin 205, a gulag near Komsomolsk-on-Amur.
Such is ordinarily spoken of as a historical fact, an incident in a war occurring 69-65 years ago. What we see in this exhibition, however, is clearly not history. Whether a panel layered with jute cloth or an assembly of wood, what is presented is not history or requiem but a “view” of a reality that is continually being replayed, even now. Because it was the artist himself who witnessed that reality, his resulting crystallization of that experience is unfading. The artist has shunned art and cast it out. As a result, when standing before his works, we have a real experience not a vicarious one. According to Prof. Masao Momiyama, who curated the exhibition, what Miyazaki found the hardest among his experiences of those years was fleeing through fields of mud at the front line of battle, along the Soviet border. The endless mud, mud, and more mud we encounter in Black Landscape (1993). When sent to the gulag, he actually felt relieved, he has said. There, he could manage to stay alive for the time being. An experience one rank more cruel than that described by Junpei Gomikawa in The Human Condition. The lines lengthwise and crosswise often appearing in his canvases express the bars at the gulag, Miyazaki says. Other motifs include birds enjoying the freedom of the sky, bright blood-red flowers blooming en mass on the Siberian land, and the faces of war companions who perished. Also, the unexpected twist of shock and slaughter on returning, miraculously alive, to Japan?Hiroshima, a city of nostalgic memories for Miyazaki, utterly destroyed by an atomic blast. Because each is so real, it stands irreparably alone, divided from the others. And from all the cracks among them rage death and life. How on earth are we to respond to this artist’s realm of endeavor, which is so unlike Leonard Foujita’s mountain of soldiers or anything else? A realm forbidding entry to art and even to human beings. (“Breath of Life: Shin Miyazaki,” The Museum of Modern Art, Hayama, April 5 to June 29, 2014.)   

Translated by Brian Amstutz


○ミッション[宇宙×芸術] 展

ミッション[宇宙×芸術] 展
200kgf級エンジンの地上燃焼実験の際に巻き込まれて燃え尽きたカメラ。このカメラは高速度撮影も可能な民生用デジタルカメラで発売直後にあさりが購入し、鴨川での実験に用いられた。衝突型インジェクタの燃料と、液体酸素の混合の様子をスロー映像で見事に捉え、現象の理解に多大なる貢献をした。(同展のパネル解説より)

 

小惑星探査機「はやぶさ」の帰還などによって、宇宙はほんとうに身近になったのか。私には、にわかには信じ難い。相変わらず、地表から8,000mも昇れば大気はほとんどなくなってしまうのだし、無重力のなかでわずかな時間を過ごしただけで、人は容易に立ち上がれなくなる。地球温暖化を食い止めるどころか、システムさえ満足に解明できていないのではないか。だがそうした厳然たる事実にもかかわらず、宇宙の話題にはこと欠かない毎日だ。
人工衛星やフェアリング(ロケットの部品)など、ピッカピカの宇宙領域資料に混ざって、参加体験型作品(八谷和彦ほか)のたどたどしさが好ましい。 アメリカで盛んな手づくりロケットに対抗して、アーティストたち有志があつまり、有人飛行をも視野に入れた独自のロケットづくりを目指しているという。全長10mはあろうかという「すずかぜ」号は、そうした実験機のひとつだろう。オモチャのような佇まいがかえって期待を抱かせる。
だが、あっけらかんとした風情とは裏腹に、液体燃料の燃焼実験は危険きわまりない。わずかな操作のまちがいで、いつ大爆発するか分からないのだ。その証として、会場には爆風で溶けてしまったカメラが何台も並べられている。サイエンスとアートをまたぐ壮大なミッションの、もう一つのよりリアルな顔である。(東京都現代美術館、〜H26年8月31日)

★★★★★


○「バルテュス展」 ヨーロッパ随一の、現代の光源氏として

ブラウスのボタンを外し、片方の肩と半ば成熟した可愛らしい乳房をあらわにする。そうかと思うと腰のあたりにまでスカートをたくし上げ、わざと片膝立てて、視線を股間の奥へ奥へと誘う。そうしたバルテュスと美少女たちの、悪戯っぽい仕草のエスカレートは、みる人の立場によって受け取り方もさまざまだろう。
女性たち、とくに若い女たちは恐らくそこに、自らの本能のごく自然な発露を発見するに違いない。一方、男たちは年齢に関わらずどこか後ろ冷たい。日ごろ抑圧されている隠微な欲望の、変態的なデフォルメを連想せざるを得ないからだ。

バルテュス展

そして批評家は、名だたるハンサムボーイ(モテ男)にのみ許されてきたエロチシズムという秘匿のジャンルが、いま「称賛と誤解だらけの/20世紀最後の巨匠」、あるいは「この上なく完璧な美の象徴/美少女」と持ち上げられ、白日のもとに晒されるのを、大いなる誇らしさと多少の口惜しさをもって、じっと眺め入っている。
振り返ってみれば、キュビスムやシュルレアリスムに翻弄され、第1・2次世界大戦という際限なき殺戮に明け暮れた20世紀のアーティストたちは、あまりに美少女なる現存在を離れ過ぎたのではなかったろうか。その狂おしいまでの輝きを忘れ、成熟へと向かおうとする無垢な女体の色香を無視し過ぎてきたのかもしれない。
いまこそ勇気ある先達、われらがバルテュス(1908-2001)閣下を見出し、学ぶべきだろう。ヨーロッパ随一の、現代の光源氏として。(『バルテュス展』東京都美術館、〜H26年6月22日)

★★★★★


○特別展「栄西と建仁寺」

特別展「栄西と建仁寺」

 

明庵栄西(1141-1215)。これで「みんなんようさい」と読む。わが国にはじめて禅宗を伝え、京都の古刹・建仁寺を開いた人である。仏法の刷新だけでなく、中国より喫茶の習慣をもたらすなど、当時の文化全般の改革者でもあった。それゆえか建仁寺とゆかりの寺々には、古来数多くの茶道具や並外れた美術品が収蔵されてきた。
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」、海北友松「雲龍図」、狩野山楽「狩猟図」、伊藤若冲「雪梅雄鶏図」…。だが私がここで注目するのは、そうした格調の高い作例ではない。鬼才・長沢芦雪が、何と筆さえ使わず紙に直接手で墨汁をなすりつけていったとおぼしき、指画の「牧童吹笛図」(18世紀、京都・久昌院蔵)だ。

それでは一体この絵のどこが、指で描かれたというのだろう。詳しいことは定かでないようだが、私は童子の細いポキポキとした描線や落款は爪先で、やや太い墨線は指の腹や側面で、頭髪や牛全体の濃淡はふたつの掌を使って滑るように描かれたと思う。筆は一切使われていないのではなかろうか。
だとすれば、ここまで描き切るためには、前もって童子の図柄が完璧に頭に入っていることが必要だ。偶然のシミや滲み・滴りを巧みに利用し、何とか牛らしくみせていく、現代アートそこのけの自在な発想も欠かせない。そしてパフォーマンスの末に出来上がったものを、最後まで美術作品といいくるめていく押しの強さもなくてはならないだろう。どれをとっても超のつく一流がもとめられることは、もとより言を俟たない。(東京国立博物館、〜H26年5月18日)

★★★★★


○「岸田吟香・劉生・麗子」展

妬み嫉(そね)みは世の常なれど、岸田劉生ほど後の絵描きたちから羨ましがられる存在もあるまい。「若くしてさっさと老成してしまった」。「なんたって冬瓜ばかり描いているんだもの」。「洋画家といっても、日本人はみな、最後はここ(文人趣味)へ逃げこむのだ」にいたっては、もはや自嘲に近い。
原因は完璧な独学でありながら、二科展、文展をはじめあらゆる展覧会を総なめにした豊かな絵画的天分にある。愛娘をモデルに「麗子像」という、それまで誰ひとりとして思いつかなかった新ジャンル(和風童女画)を確立した運のよさもあろう。それに父・岸田吟香の評判を背に、38年という短い生涯のうちにやりたいことをすべてやり尽くした感のある手際のよさだって、考えようによればカッコいいといえなくもない。
だが、それにしてもである。「近藤医学博士之像」が手に持つ一本の可憐な花をみていると、個の表現をもとめて湯呑みひとつに至るまで一切妥協せず、己れを貫き通した異端という生き方の有り様が、あらためて静かに伝わってくる展示会場ではなかったろうか。(世田谷美術館、〜H26年4月6日) 

★★★★★


岸田劉生 「麗子十六歳之像」1929年、
カンヴァス・油彩、47.2×24.8cm


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