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とっても気になるあの展覧会へ「行ってきました」

 

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○ 「ヨコハマトリエンナーレ2017」展

ヨコハマトリエンナーレ2017毎度のことながら、ヨコハマトリエンナーレのテーマの難解さは格別だ。前回は「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」。レイ・ブラッドベリのSF小説(1953年)からとられた焚書の話だったようだが、理解できた人は正直何人いたことだろう。それが今回はどうだ。島と星座とガラパゴス。語調もいいし、少々CMっぽいが、何ともスッキリしている。
定年退職後、世の中の堅いシステムによって、否も応もなくガラパゴス化させられてきた我が身としては「いよー!待ってました」とばかりに一声かけたくなるタイトルである。みなとみらいの街がゾウガメの背中にのっているシンボルイメージも悪くない。だがそうなると、展示の中身の方がいささか気になってくる。そんなわけでヨタヨタしながら横浜まで駆けつけた。
まず目を引いたのがドイツのクリスチャン・ヤンコフスキーの「重量級の歴史」(2013)だ。公共彫刻を人の力だけで持ち上げようとする風変わりなプロジェクト。重量挙げのポーランド代表チームが呼ばれ、ワルシャワ市内の歴史的野外彫刻群に挑戦した。しかし古いブロンズ像の重さはただごとではない。体の向きを変えながら何度もチャレンジするが、ビクともしないものがほとんどだ。
アイスランドのラグナル・キャルタンソン「ザ・ビジターズ」(2012)は、それに比べるとはるかに読み易い作品である。たくさんのミュージシャンがヘッドフォンから聴こえてくる音だけを頼りに、ひとり孤独に演奏を繰りひろげる。展示会場ではそのわがままなパフォーマンスが、微妙な重なりとズレをみせながらひとつの合奏曲になっていく。
こうした一見無意味な行為のうちに、人々は図らずも接続されていくのだろうか。半ば納得しかかったとき、突然巨大な洞窟がみえてきた。フィリピンのマーク・フスティニアーニが美術館の奥深くに出現させた「穴」(写真)だ。なるほど! この巨大な出口のなしのトンネルこそ、ガラパゴスの本当の姿だったのか。そうと分れば、遮二無二になかへ突っこんでいくほかはない。どのみち孤立からは逃れられなのだから。(横浜美術館・横浜赤レンガ倉庫1号館・横浜市開港記念会館、〜平成29年11月5日)

★★★★★


○ 「アルチンボルド展」

「アルチンボルド展」 一連の出来事の引き金をひいたのは、サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)であったに相違あるまい。彼はテンペラ画「プリマヴェーラ/春」(1477-78年)でウェヌスを描くに当たり、装飾としてはすべて実在の花をそのままなぞることにしたからだ。
衣裳の花はいくぶん扁平になっていて、まだ布地の花柄模様にみえなくもない。だがウェヌスの襟は、完全に現物の花と葉で編み上げられたリング状のレイとなっている。花びらも葉も、当然それぞれ好き勝手に空間へ飛び出している。金髪を飾るティアラになると、ますますもって生々しい花卉の集積だ。優美ではあるが、野原で偶然に一本ずつ髪に挿しこんでいった遊びの感覚を、少しも外れるものではない。こうして<春の化身=ウェヌス>という文学的な寓意は、神や自然の人間化というルネサンス期特有の理念をもって、画面上に定着されたのだった。
ジュゼッペ・アルチンボルド(1526-93)はその85-86年後、ウィーン宮廷に仕える忠実な<王の画家>として、「四季」の連作を描きはじめる。このとき草花を衣裳と襟と髪の毛を飾る印象深い小道具としてだけでなく、マクシミリアン大公という男性の上半身すべてをこれで構成してみせるという、破天荒なアイデアを思いついたのである。逆にいえば、彼がボッティチェリに楯突くにはそれしか手がなかったのだ。
さて、その結果マクシミリアンはグッとダンディな男になったのだろうか。親しみ易さは首尾よく達成されたのだろうか。私は少なくともウェルトゥムヌス化、すなわち季節の変化と変容を統べる神の化身として、大公がハプスブルク帝国を象徴する意味合いは、ドンと大きくなった気がするのだ。
もはや生身の人間ではなく、自然を形づくっているさまざまな物質が寄り集まって、いついかなる季節からでも、またどんな分野であろうと帝国を自在にあらわせる万華鏡のような存在になったのではなかろうか。王が望んだのは人々の集合体であり、法律の知識であり、司書のアーカイブであり、そして美味しい肉やワインに満ちた豪勢な宮廷料理だったのだ。残念なことにボッティチェリが、そして当のアルチンボルド自身がもとめた、自由で奔放な芸術家像などでは決してなかったが。
この「春」(1563年)は、花々が競い合うハプスブルク帝国の最も美しいときを体現する国王像という意味合いで、はるばるスペイン王フェリペ2世の許へと遣わされる外交的贈物となったのだった。 (国立西洋美術館、〜平成29年9月24日)

★★★★★


○ 岡本太郎と丹下健三:「岡本太郎×建築―衝突と協同のダイナミズム」展

大阪万博のシンボルゾーンとなった「お祭り広場」には、鉄パイプ製の大屋根が架けられていた。それを突き破るようにして、岡本太郎は「太陽の塔」(1970年)を立ち上げている。白い胴体からは左右に腕が伸び、仁王立ちとなった人間像にみえなくもない。とくに印象的なのは、胴体のなかほどに突如出現した丸い顔だ。タイトルからすると、嫌でも太陽そのものの表情と読めてしまう。
顔面の真ん中を縦に線が走り、左側が中央まで迫り出してきて、鼻や唇を形づくっている。唇は尖って盛り上がり、何かを主張していまにも喋りはじめんばかりの様子だ。眼(まなこ)はあたかも丸い餅が両サイドから引っ張られ、ちぎれてしまう直前のような楕円形をしている。
厳しく、きわめて鋭い目つきといっていい。相手をやや見上げるようにして、闘争の姿勢をとる。この挑みかかる形相を、両サイドからしっかりと支えているのが、真っ赤な炎を想わせるギザギザの稲妻の模様だった。
いまや誰知らぬ者のない容貌となった感のある「太陽の塔」だが、本展をみるとその原点はどうやら旧東京都庁舎の陶板壁画「日の壁」(写真1956年)にありそうである。同じ丹下健三が本体設計を担当し、その端正なモダニズムを内側から引っ掻きまわす起爆剤として、再び岡本太郎が呼び出されたいわば確信犯的デザインだからだ。
「日の壁」の中央には緑色の丸い顔がある。やや右上を見据える両眼は、真ん中を楔が縦に走る。左側が中央まで迫り出してきて、いまにも何ごとか喚きはじめんばかりの様子だ。眼(まなこ)は餅が引きちぎられたきわめて険しい目つきをしているといっていい。ただ顔の両サイドを飾る稲妻は、まだ顔のなかで緑と鋭い対立を形づくっているだけだ。
「太陽の塔」を語ろうとするとき、いつも動と静、アヴァンギャルドとエスタブリッシュされた主流派で対比される岡本と丹下だが、存外ふたりの相性は、それほどには悪くなかったのかもしれない。(川崎市岡本太郎美術館、〜平成29年7月2日)

★★★★★


○ ブリューゲル「バベルの塔」展

ブリューゲル「バベルの塔」展1560年代のピーテル・ブリューゲル1世になったつもりで考えてみよう。テーマは旧約聖書の≪創世記≫第11章に書かれている物語だ。人類はその名声を高めようとして、天にも達するほどの巨大な塔を赤いレンガでつくりはじめる。神はこれをご覧になって、人類が自らを万物の創造主たる神だと勘違いしているとして、これを壊される。しかも以後作業ができないよう言語をバラバラに攪乱させてしまったというのだ。
この可笑しくも哀しい説話を絵にしようとすると@ 巨大な塔の建設風景、A 塔が壊れていく有り様、B 言葉が乱れて人類が困り果てている様子ぐらいしか、とり上げるべきシーンはないだろう。Bは一瞥でそれと分かる図柄にはなるまい。A は壊れ方が問題だ。神の意志とはいえ、雨風の破壊力では絵として物足らない。さりとて迫りくる巨大地震や津波の恐怖を、画面上にあらわすのは至難の業だ。
そこで採られたのがローマのコロッセオを思わせる、巨大建築物それ自体の怖ろしさを強調する手法ではないだろうか。螺旋状の階段が反時計まわりに渦を巻いていると錯覚させるような楕円形にしたり、時代様式の違う柱や窓をつけたり、内部をあえて空洞化しないなど、それらしき工夫は随所にみられる。
そして極めつけはウィーン美術史美術館の「バベルの塔」(1563年)も、ボイマンス・ファン・べーニンゲン美術館の「バベルの塔」(写真、1568年頃)も、建物それ自体がほんのわずかだが左へ傾いていることだろう。視覚的には5.5度(現在は3.99度)右へ傾いて、回転モーメントが働いているピサの斜塔に優るとも劣らない印象だ。
労働者たちが大型クレーンでレンガや漆喰を運び上げるにつれて、建物倒壊の危険性は間違いなく増大しているのだ。ちなみに後続のファン・ファルケンボルフといった画家たちが描いた「バベルの塔」(1594-95年)には、そうした心配はなさそうである。
(東京都美術館、〜平成29年7月2日)

★★★★★


◯ 草間弥生の真実

草間弥生の真実『草間弥生 わが永遠の魂』展に足を運び、改めてそこに伝説の前衛芸術家・草間弥生の真実をみた思いがする。圧倒されたのは、「圧倒されるはず」の大仕掛けな部屋ではない。穏やかで平和なキャッチフレーズにみえた水玉が、最初期の女性像(1939年)の顔全体をまるで痘痕のように被い尽くしていたからである。偶然これをみて驚いた精神科医の西丸四方は、以来彼女の作品を購入し、助言するようになったという。
水玉はほどなくして、痙攣し切ったギザギザ模様に周囲をかこまれるようになる。無数のソフト・スカルプチュア(すなわち男根)や「魂を燃やす閃光A.B.Q」(すなわち精子)に、びっしりととり囲まれた彼女の脅迫観念(オブセッション)はいかばかりのものであったろう。もはや幻覚の無限増殖を押し留めることなど、出来ようはずもない。
恐怖心が高まるにつれて、水玉はしだいに眼へと変貌しはじめる。「見るぞ、見られるぞ」とあらゆる方向から監視の視線が投げかけられる。1950年代の前半、コラージュの時期に彼女の眼は魂そのものにまで昇華して、宇宙へと漂いはじめる。鏡のなかで無数に瞬く星々。その中ほどで重力にも引力にも見放されたまま、魂は妖しい閃光を放ちつづけるのだ。この年代特有の沈潜した美を身にまといながら、やがて全てはブラックホールに呑みこまれていく定めなのだろうか。
こうして草間のアートは始めもなければ終わりもなく、進歩もなければ後退もない。ただその時々の欲動だけが存在する不思議なリズム(無限円環)へと辿り着く。魂の安息、あるいは「自己消滅」(写真1967年)への憬れ、はたまた美術アートへとスルリと姿を変えた不滅願望とでもいったらいいのだろうか。必死になってそれらにまとわりつくかのように、同じ行為が繰り返されていく。
一度画面の縁から描き始めると、グルグルまわして完成するまで筆を置こうとはしない。インフィニティ・ネット・ペインティングの線分にしろ、バイオモルフィズム(生命形態主義)のドットにしろ、彼女の場合にはいつだって同じ作業が反復されるばかりなのだ。
(国立新美術館、〜平成29年5月22日)

★★★★★


○「並河靖之七宝」展

「並河靖之七宝」展美術アートのなかでも工芸作品は、とりわけ技術・技法が決定的に優劣を分かつ重要なポイントとなる。その意味で並河靖之(1845-1927)の有線七宝は、明治期最大の実績を挙げた輝かしき成功例として記憶されるだろう。
今回はその〔息を呑む〕ばかりの魅力が全開となり、ある種の諦めをも含んだ〔溜息として再び吐き出されて〕くるような思いに駆られる展示となった。これほどまでの高みに登ったアートが、何ゆえに短命で終わらざるを得なかったのか。時代とともに技術・技法は滅びて、いつしか忘れ去られてしまう。後に残るのは真に美術アートだけというお話なのかと。
以下は私が、美術館のなかを彷徨い歩いているあいだ中、反問しつづけた溜息である。
輝く黒地の生成/ガラス質釉薬の化学的生成への敬意。よって、完璧な流線形を強調する
曲がり部分の光沢・反射光がわけても見事であった。
黒地の余白/完璧な黒地がもたらす無限空間は、いつの時代も脱地上的な広がりを感じさ
せる。
模様パターンから絵画へ/左右対称ではなく、わが国美術工芸品独得の正面性と裏側の
ある図柄が印象的。(写真参照『四季花鳥図花瓶』1899)それによりメイン
モティーフが一層際立つ。写真術など明治期の多くの美術ジャンルで認
められた「絵画化」が、ここでも通奏低音となっているのは明らか。その
結果、模様パターンがしばしば陥る退屈さが、ここでは見事なまでに克服
されている。
有線技法への拘り/図柄を目いっぱい浮き立たせる視角効果は絶大。このようにして、 工芸
の近代化は成し遂げられていったのかもしれない。
細密性/緻密な手仕事というより、ほとんど顕微鏡的精度のテクノロジーといっていい。
アールヌーボー・アールデコ/やはり海外の美術動向への不断の関心と呼応が、いつまでも
古びを寄せつけない秘訣か。
仕上げの見事さ/丁寧な仕上げと滑らかな表面。すなわち砥石や鹿の角、木炭、木賊、弁
柄などを使った段階的研磨・艶出し技術は、日本のお家芸だった。
焼成/無限にくり返される焼成作業への情熱は、一体どこからやってくるのだろう。
装飾/付随する装飾品を生み出す彫金技術の確かさ。これこそ並河七宝の隠し味だと思う。
愛玩性の強調/作品をあえて小振りに留めた国際感覚とグローバル戦略。小さな不思議な
国からの「贈物」的イメージの創出は、何と見事なことか。そんな視点を
なぜに元武士たちが獲得できたのだろう。
万国博覧会に標的を定めた国際的販売戦略/販売店を構え、工場生産に踏み切った工芸の
輸出産業化は、国策ゆえの既定路線であったのだろうか。
古今の図柄の活用/正倉院御物をも想起させるシルクロード的異国趣味。古代的描写によ
る花、蝶、鳥、神獣などの巧みな引用。江戸趣味を髣髴させる洒脱・粋・
韜晦の復活。そこには言葉にならない明治期特有の呼吸があったのかも
しれない。
金属地の隠蔽/口を小さくしたり、蓋をつけることによって中をみせない工夫が感じとれる。
皿よりも鉢よりも、どこまでも壺を溺愛して止まない形態嗜好は当然の
帰結というべきか。
シャープな形態/風船に空気を入れ、膨らませて成形したとしか思えない不思議で魅力的
な流線形。下手に形を意識させない分だけ、なお一層巧みということなの
だろう。

(東京都庭園美術館、〜平成29年4月9日) 

★★★★★



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