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とっても気になるあの展覧会へ「行ってきました」

 

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○「フェルメールからのラブレター展」

女性が絵のある部屋で一心不乱に手紙を書いている。物音でもしたのだろう。ふと書く手を休め、こちらを振り向く。嬉しそうな目つきだ。だが、眼(まなこ)の奥底から発せられたその視線には、たちまち不吉な憂いの色が浮かんだ。どうやら顔を向けていても、こちらは上の空のようだ。瞳の焦点が合っていない。
唇にはいつも通り挨拶の笑みをたたえている。だがそれとても、一瞬の後には凝結してぎごちなくなる。手紙の相手とのあいだで、いまひとつ腑に落ちないところがあるのだろう。それを手繰り寄せながら追っていくと、いつしかハッとするシーンに行き当たる。
髪にはサテンのリボンを結び、大粒真珠のイヤリングをつけ、アーミン毛皮で縁取りされた黄色いコートに身をつつんでいるというのに、彼女の不安は止めようがない。それにしても美しい女性の心が、これほどまで自然に、的確に捉えられたことが、かつて一度でもあったろうか。(Bunkamura ザ・ミュージアム、〜H24年3月14日)
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「手紙を書く女」1665年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵
(c)National Gallery of Art, Washington, Gioft of Harry Waldon Havemeyer and Horace Havemeyer Jr.,in memory of their father, Horace Havemeyer.

 

○「ゴヤ ― 光と影」展

優れた画家の特徴のひとつは、間違いなく「現実直視」だろう。この点においてスペインのドン・フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスは、あまたの作家をまったく寄せつけない。宮廷の穏やかな日常であろうと、戦場の無残な光景であろうと、彼は「私は見た」といわんばかりに情容赦なく描き記していく。
女の肉体でもことは少しも変わらなかった。まだヴィーナス以外に裸婦を描く習慣のなかった時代にあって、ゴヤは眼前の女性をさしたる美化もせず淡々と写しとる。その結果、19世紀初頭のマドリードを闊歩していた洒落女のマハは、まったくの裸体で、そして同じポーズをとる着衣の姿で二度描き写された。(写真)
そこには確かに「なぜ?」といいたくなる、不可解さがあるだろう。だが好奇心をくすぐるその不可解さに足をすくわれるより、われわれは200年以上の時空を超えてマハが送ってくる、妙に満ち足りた眼差しの不思議にこそ心奪われるべきなのではないだろうか。
(国立西洋美術館、〜H24年1月29日)

★★★★★

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ゴヤ 「着衣のマハ」1800-07年、カンヴァス・油彩、95.0×190.0cm、マドリード 国立プラド美術館

 

○「Hierher-Dorthin−こちらえ、あちらへ−」展

「BIND DRIVE」2010-11年、Animation、4.50min。(Loop)

 

ドイツ文化会館で団・DANSグループのユニークな展覧会が開かれた。一見したところ各作家が抱えるテーマに、通底するものはないようだ。しいていえば、一枚のペラペラな平面上に展開されてきた絵画の限界といったものに、奇想天外な手法をもってそれぞれがチャレンジしてみせる姿だろうか。その大きな犠牲の上に、絵はときとして深いテクスチャーと内面性を獲得してきたとしてもである。
例えば佐藤雅晴の作品をみていると、絵画の深みを帯びた画像がそのまま動き出し、一向に変化しないアニメーションとして静かに展開していく不思議さがある。これははたして動く「近代絵画」なのか。それとも絵を凌駕する内面性を帯びてしまった「アニメーション」なのか。(写真:さてどちらが天使で、どちらが悪魔なのでしょう。)
もとより作品のジャンル分けが問題なのではない。近代絵画とアニメーションのどちらにもない「生の気配」が、そこでは当たり前のように辺りを支配していることが問題なのだ。
(H23年8月2-9日)

★★★★★

 

○「写楽」展

松下造酒之進は武士の家に生まれながら、これといった信念もなく、万事に控えめな男であったらしい。そこを人につけこまれ、損な役まわりばかりやらされた挙句、仕官の道も閉ざされて、とうとう浪々の身となってしまった。おまけにたちの悪い病魔にとり憑かれ、借金を重ねて娘を吉原に売り飛ばすはめとなる。最後は自宅にやってきた志賀大七に、大原長満もろとも殺害される。江戸は桐座の狂言「敵討乗合話」、「固瀬村の段」のストーリーだ。
零落し切った浪人の様子が、写楽の「初代尾上松助の松下造酒之進」(1794年)ではほんのわずかな薄墨で、みごとに捉えられている。目のまわりの隈、鼻の下の不精ひげ、そして顎の薄い髭だ。これにこめかみのほつれ毛、薄く白髪まじりとなった頭髪が加われば、いかに善人ではあってもいつも焦点の定まらない人柄がにじむだろう。(写真)
写楽といえばアクの強い線で人気役者の大見得を、やや誇張気味に描きとる芝居絵師だと思われがちだ。しかし今展の大英博物館蔵大判錦絵(36.1×24.6cm)をみると、線描はもとより、薄墨の抑えた表現でさえ決して他の追随を許さぬ天才画家であることが歴然としている。

(東京国立博物館・平成館 〜H23年6月12日)

★★★★★

 

○「原爆を視る1945-1970」展

東京の目黒区美術館は、H23年4月9日に立ち上げを予定していた「原爆を視る1945-1970」展を、突如中止すると発表しました。制作現場には、翌日から作品集荷という夕方にいきなり通告されたようです。ともすると風化気味だった原爆、放射能汚染の怖ろしさをいまほど切実に伝えられるときはないので、美術関係者の多くは、何をおいても開くべき「切実な展覧会」と考えていた矢先でした。
同館によると、東日本大震災のあと目黒区および同区芸術文化振興財団で協議し、「放射能への不安が広がる中で影響を受けている人々の心情に配慮して中止を決めた」とのこと。しかし完全な取り止めというわけではなく、田中晴久館長が「復興の力を伝えるうえでも意義のある展覧会で、2012年度の開催を目指したい」とコメントしている通り、来年度の再チャレンジを目指してこれからも準備を継続する方針だそうです。未知の巨大な恐怖をまえに、一見非力なアートがどう対応してきたかをわれわれ自身の目で体感するには、H24年度の完全復活を待つよりほかないようです。

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丸木位里・俊子 「原爆の図」1959年、
210×270cm

 

○「曽根裕展|Perfect Moment」

曽根裕 「Little Manhattan」2010年

曽根裕 「Little Manhattan」2010年、大理石、85×265×55cm

曽根裕はロサンゼルスに住み、中国やメキシコの工房で作品をつくり、ニューヨークを中心に発表している。さながら、いまのグローバル社会を象徴するような自在な生き方だ。そしてその制作ぶりも一風変わっている。
人々を巻きこんだコミュニティ・プロジェクトを発表するかと思えば、職工たちを動員して精緻な彫刻に挑んでみせる。自らの技の発揮にはあまり執着しない。それより、いまのアートの有り様に関心が集中している。その意味では、きわめて批評的作家といっていいだろう。
例えば「リトル・マンハッタン」(写真)では、誰でも知っているマンハッタン島のイメージが、細大もらさず巨大な大理石に移し替えられている。密集率世界一の摩天楼もセントラルパークも、まるで飛行機から見下ろした風景そのままだ。そして市街地は、地下岩盤からもの凄い断崖を成してそそり立つテーブル・マウンテンの頂上に乗っている。はて、この光景はいつかどこかで見たような気がしなくもないが。 詳しくはこちらから⇒

(東京オペラシティ アートギャラリー、〜2011年3月27日)

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