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都政新報 2009年11月20日掲載

新 アートの時代へJ

●国立新美術館「開館記念展」(2007年1〜3月)
貸し会場、その光と影


 首都である東京には、当然たくさんの美術館がある。それらのなかで、自前の企画展をやりながら同時に日展、二科展、院展をはじめとする数多くの公募団体に、展覧会場を提供するという独特の役割をはたしてきたのが東京都美術館であった。その淵源は古く1926年(大正15年)にまで遡る。
 江戸期までの古美術品を収集、展示する施設の整備は、国により帝室博物館事業として明治の初頭からすすめられた。これに対しご維新以降の同時代美術は、長らく放置されたままであった。(国が東京国立近代美術館の建設に踏み切ったのは、戦後のことである)。大正期に「これではいかん」と立ち上がったのが、九州の炭鉱王と呼ばれた佐藤慶太郎(1868-1940)という人物だった。一念発起して東京府へ100万円の寄付を申し出ている。これを受けて上野に東京府美術館(旧都美術館)がつくられたのだ。
 幅広い階段を登っていくと、パルテノン神殿さながらの円柱が並ぶ、重々しい出入口がある。薄暗い室内に一歩足を踏み入れると油の匂いがプンと鼻を衝く。高い天井とそそり立つ巨大な壁面。まさに近代日本の美の殿堂だった。そこで幾多の公募展と、新聞社が招聘してくるフランス近代美術展などが、競い合うように交互に開かれていたのである。なかでも、体育館を思わせる大展示室いっぱいに展開された東京ビエンナーレの壮観は、いまなお美術関係者たちの語り草になっている。
 しかし欧米のやり方をいち早く取り入れようとする企画展と、わが国独自の公募展の性格は相容れない。しだいに双方に不満が蓄積していく。これを一挙に解消するため、1975年前川國男によって全面建て替えが行われた。かつて日本の美術活動の少なからぬ部分を意味した公募展の役割をそっくり残しながら、その一方でキュレイター(企画展担当者)が腕をふるうホワイト・キューブも必要不可欠と考えられたのだ。遅ればせながら東京都美術館はこのとき、教育及活動やライブラリー機能を備えた現在の当たり前の美術館に生まれ変わったのだ。
だが公募展用のスペースはすぐさま物理的限界を迎える。圧迫された企画展示室は、いつしかマスコミが占拠する大型展の貸し会場のようになっていった。展示の難しいコンテンポラリー系アートに関しては、東京都美術館とは別に東京都現代美術館が江東区木場に建設される。ここに至ってようやく国が、公募団体をも対象とする新しい施設の建設に乗り出した。
 森美術館が開設されて、東京の新しい文化ゾーンとしての地位を固めつつあった六本木地区を念頭に、ナショナル・ギャラリーの構想が打ち出されてくる。公募展を行いながら、同時に最新の大型国際展が打てるスペースと財源措置を備えた巨大館を、早急に建ち上げようというのである。こうして「貸し会場」の軋轢から半ば解き放たれた東京都美術館は、皮肉にもその本来の役割を初めて問い直されることになったといえよう。
 一方ナショナル・ギャラリーは2007年1月、わが国5番目の新国立美術館として華々しく誕生する。黒川紀章設計の、うねるようなガラス壁と逆円錐形のレストランタワーが印象的だ。開館記念展では、物質文明と唯物主義の経緯を検証する「20世紀美術探検−アーティストたちの三つの冒険物語−」が行われた。
 広い展示スペースは、1000uの公募展用展示室10室と、2000uの企画展用展示室2室からなる。部屋は開放的になり、作品もかなり明るくみえるようになった。公募展サイドの評判もまずまずである。美術館が想定する公募団体とは、全国的な規模で活動し、少なくとも美術作品の一般公募展を毎年定期的に開催しているものを指すという。異論はない。問題はこれからの日本を背負って立つ若いアーティトスたちが、どれほどこの仕掛けに賛同し、喜んで乗ってきてくれるかだろう。

 

 


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