日本のオタク文化をアートに持ちこみ、世界に発信する上で圧倒的な力となったのは、村上隆、奈良義智をはじめとする一群のアーティストたちである。そしてそれを背後から支えたのは、美術館でもなければ既存の画廊でもなかった。谷中のギャラリー、スカイ・バスハウで働いていた小山登美夫である。
彼は著書『現代アートビジネス』のなかで、若い作家の展覧会をやっても価格が安すぎて、たとえ全部売れたとしても画廊の運営費が出てこない。どうしても同世代のアーティストを手がけるためには、「独立して自分でやるしかないと思った」と書いている。フィギュアなど美術界では、誰にも見向きもされなかった時代だ。
1996 年、墨田川にかかる永代橋近くの食糧ビルを借りて、小山登美夫ギャラリーは産声を上げる。5×6メートルの展示室と、小さな事務用スペースを備えただけの小さなアート空間だった。それでも当時は家賃を払うのに苦労したという。同じころギャラリーを立ち上げた仲間には、タカ・イシイギャラリーの石井孝之、ギャラリー小柳の小柳敦子、ヴァイスフェルト(レントゲンヴェルケ)の池内務、ワコウ・ワークス・オブ・アートの和光清、オオタファインアーツの大田秀則、ギャラリーサイド2の島田淳子などがいる。
小山はその後本拠を江東区清澄に移し、ギャラリー・スペースを二箇所と、銀座、京都にオフィスを構えるようになる。美術館が予算の削減や観客動員数の確保に四苦八苦するなか、これらのアートスペースでは先頭集団を追いかけろとばかり、日夜若手作家たちの冒険的な展示がつづく。写真家・蜷川実花の何度目かの発表は2006年11月、この清澄の倉庫ギャラリーで行われたのだ。
ひろい白壁には赤とライトブルーを基調にした、色鮮やかな花の写真が並べられる。大きな写真パネルの上に、別のカラー写真を規則正しく配置したものもある。どれも花弁や芯が強烈にアップにされている。そのため草花の自然な感触よりも、造花かと見紛うばかりに人工的な表現となっている。作品点数を絞ったため、その本質はより鮮明になって観る者の胸に迫ってくる。
新人とはいえ蜷川はすでに木村伊兵衛写真賞を獲っている。ファッション界と写真業界では、キャリアを確立した表現者といっていいだろう。この発表の前には、次はいよいよ美術館での展示だという思いも募らせていた。ところが実際美術館に当たってみると、どのキュレイター(企画展担当者)も「蜷川さんはコマーシャルな(世界の)人だから」とけんもほろろだ。美術館の壁は思った以上に高いと実感した。
キュレイターたちは、行政機構のなかで自館を存続させることに腐心するあまり、長期間外部との交流をじゅうぶん育んではこなかった。その結果アート全体、ことに日本の新しい動向を見渡す力を少なからず萎えさせてきた。作家や作品に対しては、モダニズムの大きな流れに照らしてじゅうぶんな説得力を持っているかを問い、自らの個人的体験だけを頼りによりに、「いい」とか「悪い」とかいっているに過ぎなかった。少なくとも蜷川実花にはそう感じられた。
彼女は迷うことなく小山に相談する。蜷川によれば、小山登美夫の態度には「大衆に愛されているものは高尚ではない」、「高尚でなければ美術でない」という拒絶的な雰囲気は、まったくなかったという。こうして新しい作家を継続的に後押しし、美術そのものの領域を拡大するというアート界最前線の機能は、急速に美術館を離れていく。アートマーケットとプライベート・ギャラリーが、それにとって代わったのだ。
しかしながら悲しいことに、この新興勢力を最初に経済的に支えたのもまた、日本のコレクターたちではなかった。何しろ国内に、わが国の若手アーティストを対象としたマーケットらしきものは、ほとんど存在していなかったのだ。 |