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都政新報 2009年10月16日掲載

新 アートの時代へ A

●「バーンズ・コレクション展」(1994年1〜4月)
究極の美術イベント


 大きなプラカードを持った係員が「ここが最後尾です」と声を涸らす。しかし聞いている人はほとんどいない。国立西洋美術館をとりまく群衆は尻上がりに膨れていき、館内に足を踏み入れるだけで5時間はかかると報じられた。それでも人々はためらうことなく、ますます朝早くに起き出して、上野のお山を目指す。
最終日には一日で2万4000人が、ル・コルビジェの設計した瀟洒な建物を十重二十重ととり囲んだ。延々長蛇の列は足し合わせると12キロ以上にもなる。最終入場者数107万1352人は、「ミロのヴィーナス展」(昭和39年、83万人)を抜き、国立西洋美術館はじまって以来のレコードとなった。
図録の販売部数は50万冊。会期を60日として、一日平均8333冊売ったことになる。もし仮に販売員が5人だとしたら、一日中休みなく17.2秒に一冊販売した勘定だ。図録をチラシなどとともに袋につめて手渡し、代金をもらって、つり銭を返す。普通でいけば30秒はかかる作業だ。とてもレジを通している暇などない。金はどんどん床へ落とし、販売員はお札の上を歩いていた。図録制作を請け負った印象社は輪転機をフル稼働させ、一日3回大型トラックでのりつけ、絶え間なく納品・検品業務をくり返す。それで売れ残りはわずか1万冊だったというから、ベテラン出版社の読みはきわめて正確だ。
身動きならなくなった展示場では、子供たちがしばしば立ち往生する。トイレの場所が分からず、やむなくその場で済ませてしまう。清掃係は閉館後、会場のあちこちにあるそうした「落し物」の処理に追われた。真冬の時期でもあり、長時間待たされて気分の悪くなったお年寄りたちも少なくない。
当時事業課長であった雪山行二氏によると、救急車の出動は都合7回。こうなると展覧会見物もあだやおろそかには行かれない。命がけの苦行だ。体力のない向きには、とてもお薦めできない。共催した読売新聞社は閉幕後「混雑のため入場までに長い時間がかかるなど、ご来場の皆さまにご迷惑をおかけいたしました。皆さまのご理解、ご協力に感謝致します」とコメントを発表した。
それでは一体どうして、こういう事態が起こったのか。その最大の原因は、バーンズ・コレクションそのものの性格にある。アメリカ・ペンシルベニアの実業家(目薬を開発した化学者)アルバート・C・バーンズは、印象派、後期印象派からエコール・ド・パリまでのフランス美術を収集するコレクターとして有名である。とくにセザンヌ約70点、ルノワール180点、マチス、スーラ他は、とても個人の力であつめたとは信じられない名品揃いだ。
ところが彼はコレクションを愛するあまり、観覧を厳しく制限し、外部への貸し出しは無論のこと、図柄の複製さえ許可しなかったのだ。日本側が制作したカタログもすかさず槍玉にあがった。当初国立西洋美術館と読売新聞社では、カタログの表紙をアンリ・マティスの「生きる喜び」(1905-06年)に決め、万単位での準備を済ませていた。ところがバーンズ側は、図柄が背の部分で分断され、絵のなかに「文字まで刷りこんでいる」という理由で訂正をもとめてきたのだ。美術館はあわててアンリ・ルソーの「熱帯の森を散歩する女」(1905年)に差し替えて、全体をつくり直したのだった。
所蔵作品を外部に貸し出さないという方針は、A.バーンズの没後も遺言によってしっかりと継承される。1994年にただ一度だけ、財団ギャラリーの改修費調達のため、ワシントンのナショナル・ギャラリー、オルセー美術館、そして国立西洋美術館に対してのみ、450万ドルで許可が出たのだ。読売新聞社はこの「門外不出」、「非公開」の原則を、観客動員のまたとない謳い文句にした。公の美術館の権威、巨大マスコミの潤沢な資金と宣伝力、そして長いあいだ慣れ親しんできた文化ゾーン上野という、わが国特有の大型展開催方式がひとつの頂点を極めた瞬間だった。

 

 


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