今回の講義では6人の作家を扱います。すなわちカラヴァッジョ、セザンヌ、ルノワール、アンリ・ルソー、ダリ、ファッツィーニです。いずれも西洋美術史に傑出した業績を残した巨匠たちばかりですから、人と芸術のあらましについては、すでにおおよそご存知のことと思います。
ところで皆さんは、将来アートを生業(なりわい)とするアーティスト(の卵)たちです。
少なくとも私はそう理解しています。そうした皆さんには、この授業を通してぜひ考えてもらいたいことがあります。それは作家にとって、とくに2010年のいまを生きる作家にとって「個性」とは何かということです。
近代(特有)の個性をつくり上げた人物として、授業ではセザンヌを軸に話しを進めていきます。カラヴァッジョからセザンヌへという時代の推移のなかで、視覚、カノン、手業、写真術、さらにはハッチング、デフォルマシオン、サンサシオン(感覚)、リアリザシオン(実現)、タンペラマン(気質)といくつものキーワードをめぐりながら、しだいに「アーティストがアーティストであるための個性とは、一体何か」に迫っていきたいと考えています。
そしてセザンヌ以降は、作家たちがそれぞれの生き方を通してくり広げた、セザンヌ流個性との熾烈な闘いをみていくことになります。たとえばアンリ・ルソーは、思索的なセザンヌにはまったく背を向け別個の道を歩んでいきます。が、それでもセザンヌを否定したり乗り越えたわけではありません。
今回の授業では、マルセル・デュシャンまで触れることは出来ません。しかし、デュシャンが1917 年(大正6年)にレディメイドの便器を発表してから、すでに93年たつ世の中に屹立している皆さんには、とても恐ろしい状況が待ち構えています。それはせっかく努力して、セザンヌ流の並外れた「個性」を獲得しても、それを伝えるコミュニケーションの方が、近年すっかり変質してしまっているということです。
これはきわめて大きい問題で、アートのつくり手だけで処方箋が書けるわけではありません。しかし新たな表現のクリエイターとして、皆さんがこの難問に主体的に立ち向かうことを期待されているのは、多分間違いないでしょう。ですから一方でそんな問題意識を持ちながら、自分の現実(表現)を素直に見据えつつ、いまの「個性」を探っていってくれればと思います。
なお授業の進行とは関わりなく、質問・提案・感想・批判の類は、いつでも受けつけています。このHPへの積極的なアプローチが、皆さんそれぞれの評点に反映されることは、いうまでもありません。
●4月23日の授業で、二人の学生さんからコミュニケーションについて質問がありました。「現在のコミュニケーションのあり方と、そのアートへの影響」ということだったと思います。いろいろな回答の仕方があると思いますが、とても難しい問題です。
そのことに関して先週の土曜日、柏市のアートスペースislandというところで、大変面白い催しがありました。次回30日に時間がとれれば、その内容について報告したいと思います。
勅使河原 純 |