「五足の靴」とは
いまから百年ほどまえの夏、西九州を旅した詩人たちがいた。東京新詩社『明星』の主宰であった与謝野鉄幹(寛)と平野萬里、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎(太田正雄)など5人の新進作家である。
彼らは明治40年(1907)の7月末から8月にかけて福岡、佐賀、長崎、熊本へと旅し、旅先から『東京二六新聞』に「五人づれ」の名で29回の紀行文をリレーしている。この寄稿は「五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た」という一文ではじまるところから、「五足の靴」と呼び習わされている。
おりしも鉄幹は30代半ば、あとの4人は20代前半という若さである。自由闊達な精神と壮健な身体が、まばゆい夏の光降りそそぐ九州の地で多くの人々と遭遇し、風景に出会っている。その様が活き活きと、あますところなく描写されたのだった。
旅を終え、五足の靴を脱いだ後も、彼らの文学活動は淀みなくつづく。九州での体験は「邪宗門」(北原白秋)、「南蛮寺門前」(木下杢太郎)など、明治末から大正にかけての南蛮趣味として、文壇に特異な足跡を残したのだった。
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