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板画院展

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草創期の作家たち

 

第62回板院展特別展示「草創期の作家たち」

 

出品作家:棟方志功、永瀬義郎、永礼孝二、金森世士夫、岡森吉右衛門、村上暁人、下澤木鉢郎、森本木羊子、笹島喜平、森義利、棟方末華、武藤六郎、守洞春、山口晴温、城所祥、秋山巌、三ノ輪一巴、長谷川富三郎、佐藤米次郎、土屋正男、日下賢二、舩坂芳助、日下里美ほか



棟方志功「軸 再誕の柵(誕生の柵)」
※本邦初公開の作品 柳宗悦の七回忌に制作

棟方志功「R火頌・R火の柵」
 

笹島喜平「吉祥天T 彩色」

日下賢二「作品43」
   

舩坂芳助「My Space and My Dimension 885」
 

棟方志功 (むなかたしこう)

愛シテモ、 アイシキレナイ
驚イテモ、 オドロキキレナイ
歓ンデモ、 ヨロコビキレナイ
悲シンデモ、カナシミキレナイ
ソレガ板画(はんが)デス。


1903(明治36)年
9月5日、青森市大町で、鍛冶職、棟方 幸吉、さだの三男として出生。
1916(大正 5)年
青森市立長嶋尋常小学校を卒業。家業の鍛冶職を手伝う。
1921(大正10)年
「白樺」誌に掲載されたゴッホの画「ひまわり」に感銘を受ける。
1924(大正13)
絵画の習得"わだば(私は、日本の)ゴッホになる"ため、上京。
1928(昭和 3)年
同郷の先輩、下澤 木鉢郎(きはちろう)の紹介で平塚 運一を訪問、版画の習得を開始。
1930(昭和 5)年
赤城 チヤと結婚。第5回国画会展に版画4点を出品し、入選。これ以降、国画会他に出品し、受賞を重ねる。
1931(昭和 6)年
初版画集「星座の花嫁」を上梓。
1932(昭和 7)年
第7回国画会展に版画「亀田 長谷川邸の裏庭」を出品し、奨学賞を受賞。
版画の道に生きることを決める。日本版画協会の会員に推挙される。
1936(昭和11)年
佐藤 一英(いちえい)の詩「大和(やまと)し美(うるわ)し」に触発され、同名の版画巻(はんがかん)を国画会展に出品。これを日本民藝館が購入。それが縁(えにし)となり柳 宗悦、河井 寛次郎、濱田 庄司の知遇を得る。「華厳譜(けごんぷ)」を制作。この年、裏彩色(うらざいしき)を試みる。
1937(昭和12)年
「東北経鬼門譜(とうほくきょうきもんぷ)」を制作。
1938(昭和13)年
第2回文展に「善知鳥(うとう)版画巻」を出品、特選を受賞。松江市、出雲和紙の漉き職人で人間国宝、安部 栄四郎の協力を得、薄手で摺りに耐える版画用箋が完成。この紙で「観音経(かんのんぎょう)版画巻」を裏彩色で制作、初めて成功した。
1940(昭和15)年
前年に制作した「二菩薩釈迦十大弟子」を国画会展に出品、翌年、第5回佐分賞を受賞。
1941(昭和16)年
日本板画院を創立するも、戦中戦後の激動、混乱期のため、雌伏を余儀なくされる。
1942(昭和17)年
初の随筆集『板散華(はんさんげ)』を刊行。自らの作品を「板画(はんが)」と称すことを宣言。
1945(昭和20)年
東京大空襲、大部分の版木を焼失。富山県西砺波郡福光(ふくみつ)町に疎開。「鐘渓頌(しょうけいしょう)」を制作、翌年の日展で岡田賞を受賞。
1948(昭和23)年
空襲で焼失の文殊、普賢の二菩薩を改刻、「二菩薩釈迦十大弟子」が再生。
1949(昭和24)年
「女人観世音(にょにんかんぜおん)板画巻」を制作。日本民藝館で「棟方志功特別展」を開催。
1951(昭和26)年
東京都杉並区荻窪に転居。
1952(昭和27)年
第2回ルガノ国際版画展(スイス)に「女人観世音」を出品し優秀賞を受賞。
日本版画協会を脱退。富本 憲吉、梅原 龍三郎、安井 曽太郎他を顧問に戴き、下澤 木鉢郎、笹島 喜平、棟方 末華、北川 民次らと日本板画院を改めて創設、再結成し、活動を開始する。
1955(昭和30)年
サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展(ブラジル)に「二菩薩釈迦十大弟子」他を出品し、版画部門で最高賞を受賞。
1956(昭和31)年
ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展(イタリア)に「二菩薩釈迦十大弟子」、「柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)」など11点を出品し、版画部門で国際版画大賞を受賞。
前年との両賞で"世界のムナカタ"と、名声が高まる。谷崎 潤一郎「鍵」の挿絵板画を制作。
1958(昭和33)年
 「龍原頌(りゅうげんしょう)」、「海山(うみやま)の柵(さく)」を制作。柳 宗悦監修による「棟方志功板畫(はんが)」が刊行される。
(注)柵とは、巡礼者が寺々に納める札を指し、棟方は、一点一点の作品を生涯の道標として納める意図で板画の題名に限定。肉筆画や油絵には使用していません。
1959(昭和34)年
渡米、6都市の大学で版画を講義し、個展を開催。さらに欧州に渡り、ゴッホの墓を訪ねる。国立近代美術館で、「ヨーロッパ巡回棟方志功展」の国内展示会を開催。以後、作品は2年間にわたり欧州を巡回。
1960(昭和35)年
日展の評議員に就任。日展版画部創設のため、日本版画会(日版会)を設立。
1961(昭和36)年
第13回板院展後、日本板画院は日本版画協会、日版会との両属を禁ずる。
1963(昭和38)年
倉敷国際ホテルの大板壁画(だいはんへきが)『大世界の柵・坤(こん)』副題「人類より神々へ」 (後、大阪万博『乾(けん)』の対)、弘前文化会館の緞帳原画を制作。藍綬褒章を受章。
1964(昭和39)年
「東海道棟方板画」、続篇「追開棟方板画東海道妙黛(みょうたい)屏風」を制作。
1965(昭和40)年
朝日賞を受賞。渡米、ダートマス大学から名誉文学博士号が授与される。
1966(昭和41)年
7月、脳血栓を罹病。秋、制作活動を再開。草野 心平詩、棟方 志功板画による詩画集『富士山』を刊行。
1967(昭和42)年
日本板画院の名誉会員に推戴される。3回目の渡米。
1969(昭和44)年
青森市が「名誉市民」の第1号を贈る。大阪万博の日本民芸館に展示する『大世界の柵・乾』副題「神々から人類へ」(前、倉敷国際ホテル「坤」の対)を制作。
(注)乾坤とは、天と地を指し、<神や人を超えた大きな世界>という意味で、棟方は「乾坤」の言葉を使ったのだと考えられています。
1970(昭和45)年
毎日芸術大賞を受賞。文化勲章を受章し、文化功労者の顕彰を受ける。
1973(昭和48)年
「奥海道(おうかいどう)棟方板画」、「華厳経唯心偈(けごんきょうゆいしんげ)」他を制作。(財)棟方板画館を設立。
1974(昭和49)年
全長17mの倭画(やまとが)「祢舞多運行連々絵巻(ねぶたうんこうれんれんえまき)」を制作。9月5日、鎌倉に棟方板画館が開館。
1975(昭和50)年
9月13日、杉並の自宅で永眠、72歳。11月17日、青森市に棟方志功記念館が開館。

 

 

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