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都政新報 2009年10月27日掲載

新 アートの時代へ D

●「横浜トリエンナーレ2001」(2001年9〜11月)
世界サーキットに日本も参入


 ひとりの辣腕プロデューサー、北川フラムによって発案・誘導された「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2000」。その予想を上まわる成功が、首都圏の美術状況を大きく揺さぶっていく。翌2001年9月に、早くも次の大型国際美術展「横浜トリエンナーレ2001」が、パシフィコ横浜展示ホールほかでスタートすることになったからだ。
主催したのは横浜トリエンナーレ組織委員会を構成する国際交流基金、横浜市、NHK、朝日新聞社の4者。なかでも国際交流基金の存在が大きかった。つまり横浜トリエンナーレは、それまでの「福岡アジア美術トリエンナーレ」や「大地の芸術祭」とは根本的に異なり、国が直接運営にかかわる正規の定期国際展として世界に喧伝されたのである。
欧米で生まれたエキジビション(展覧会)というシステムは、全権を握ったキュレイター(ないしディレクター)が理想のアーティストを一堂にあつめ、その作品群を通してキュレイター自身の世界観を人々に開示してみせるという、見方によれば大層独裁的な制度である。その特質を最大限に発揮してみせる場は、いうまでもなくビエンナーレやトリエンナーレと呼ばれる隔年開催の定期国際展だ。
それがアジア諸国のなかで、異文化交流の地として知られる横浜で、まずは最初に開かれるという。美術関係者はいよいよ「世界同時性のサーキットに日本も参入した」(菅原教夫・読売新聞記者)と興奮し、行政担当者はそこに数十万人もの人々を沸き立たせずにはおかない祝祭をもとめた。複数のアーティスティック・ディレクターたちが設けたテーマは、文化の垣根をとり払う「 メガ・ウェイブ 新たな総合に向けて」。これに応えて38カ国から約110作家が作品を送ってきた。
メーン会場にほど近い高層ビルには、椿昇+室井尚作の巨大バッタのバルーン「インセクト・ワールド−飛蝗」が出現する。潮風に耐えてビルの外壁にしがみついている姿は、何とも愛らしく健気だ。屋外にはオノ・ヨーコの「貨物車」が据えられる。よくみると壁面には無数の弾の痕。ごっとんごっとんという列車のリズムにのせて、鎮魂のうめき声が辺りに重たく響く。夜になると貨物車の天井を突き抜けた一筋の光が、天空と地上を固く結ぶパイプの役目をはたす。
会場に足を踏み入れると、すぐ目に飛びこんでくるのが塩田千春の「皮膚からの記憶2001」。天井から5着の長大なロングドレスが吊り下げられている。それは確かに女性を華やかに飾る衣裳にはちがいないが、不気味な褐色に輝いている。そして上からは何事かを暗示する水が、絶え間なく滴り落ちてくる。
赤レンガ一号倉庫に目を転じると、束芋(たばいも)が「にっぽんの通勤快速」と題し、オジさんたちの何気ない日常風景を皮肉っぽく切り出している。若い人を中心に大人気だ。結局2ケ月あまりの会期で、横浜トリエンナーレは延べ35万人の観客をあつめた。多くの人が口を揃えるように、それは現代美術の祝祭としては恐らく前例のない成果だったろう。
会期中港横浜に、若いカップルの姿の絶えることはなかったのだ。
だが、美術に過剰ともいえる政治的負荷がかかり、マスコミ各社がそれをいつものこととして強力に消化していったのも事実。そんななかでディレクターたちの意図は、結局最後まで明確にはならなかった。そもそも幾人かのキュレイターが、グローバルなアートからアジア向けのヴィジョンを切り出してみせること自体、しだいに困難になりつつある。テーマの内実が伴わない企画展は、いかに規模が大きかろうと虚しさからは逃れられない。
  もっと率直にいえば、日本のパブリックな性格の企画展は、この「横浜トリ」辺りから少しずつ金属疲労を起こしはじめたと思われるのだ。

 

 


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