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島原に生きる 増田正治

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いま私がもっとも力を入れているのは「軍艦島」と、「五足の靴」に取材した作品です。廃墟となった炭鉱の島と文学紀行。ふたつはまったく性格を異にしていますが、ともに近代日本の記念すべき成果であることに変わりはありません。西九州を舞台に展開された世界でも稀な事跡は、どうしても自分の手で記録に残し、後世に伝えていかねばと思っています。

 


「軍艦島」

夫婦岩と軍艦島
「夫婦岩と軍艦島」

軍艦島とは

正確には長崎県西彼杵郡高島町にある端島のこと。姿形が戦艦「土佐」に似ていることからこの名がつけられた。南北480m、東西160m足らずの小さな島である。1810年ごろ石炭が発見され、明治期からは本格的な海底炭鉱として大々的な操業が行われた。それに伴い島にはコンクリートの高層建築物が林立するようになる。小中学校をはじ
め商店、料理屋は無論のこと、病院や映画館まであったという。
しかし鉱脈はしだいに細り、1974年遂に閉山される。2200人を数えた住民はひとり残ら立ち去り、島はわが国の近代産業をいま伝える無人の遺跡となったのである。

「五足の靴」とは

いまから百年ほどまえの夏、西九州を旅した詩人たちがいた。東京新詩社『明星』の主宰であった与謝野鉄幹(寛)と平野萬里、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎(太田正雄)など5人の新進作家である。
彼らは明治40年(1907)の7月末から8月にかけて福岡、佐賀、長崎、熊本へと旅し、旅先から『東京二六新聞』に「五人づれ」の名で29回の紀行文をリレーしている。この寄稿は「五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た」という一文ではじまるところから、「五足の靴」と呼び習わされている。
おりしも鉄幹は30代半ば、あとの4人は20代前半という若さである。自由闊達な精神と壮健な身体が、まばゆい夏の光降りそそぐ九州の地で多くの人々と遭遇し、風景に出会っている。その様が活き活きと、あますところなく描写されたのだった。
旅を終え、五足の靴を脱いだ後も、彼らの文学活動は淀みなくつづく。九州での体験は「邪宗門」(北原白秋)、「南蛮寺門前」(木下杢太郎)など、明治末から大正にかけての南蛮趣味として、文壇に特異な足跡を残したのだった。

 

5人の詩人たち

「5人の詩人たち」

五足の靴

「『五足の靴』旅程図」

島原城
「島原城」
亀屋旅館跡地より
「亀屋旅館跡地より」 

 

 

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