女はやにわにほつれた乱れ髪を掴むと、お歯黒の口元も凄まじくぎりぎりと歯軋りしはじめる。桃山風の着物には墨と、目にはしかとみえない白線で、幾重にも蜘蛛の巣が張りめぐらされていた。そこからは「なぜにこれほどの苦しみを受けようぞ、努々呪い殺さずにはおくものか」と、狂わんばかりの思いが伝わってくる。鬼気迫る怨念は通じ、ついに葵上は死の床に伏す。それにしても松園はなぜ、これほどまでに烈しい女の性(さが)を絵にしたのだろうか。

画道一筋に生きた松園は、日常にまつわるすべてを犠牲にして作画に没頭する。明治35年(27歳)にはついに、未婚の母として恩師・鈴木松年の子を産む。(後の日本画家・上村松篁だ)。こうした松園の自由というか、徹底して意志を貫く生き方を、ライバルの男性作家たちが快く思うはずはなかった。古いしきたりの京都にあって、状況はしだいに「戦場の軍人と同じ血みどろな戦い」の様相を呈していく。

さらに40代に入ってからの、年下男性との抜き差しならない色恋沙汰。だがどれほど相手を想ってみても、所詮妻のある人を完全にわがものにはできない。そのやり場のない苛立たしさを能に託して描いたのがこの「焔」である。展覧会担当学芸員の中村麗子さんによると、以後作品を発表できないスランプは4年もつづいたという。松園自身「どうして、このような凄絶な画を描いたか私自身でもあとで不思議に思ったくらいです」と述懐するほど、強い情熱に衝き動かされての一点だった。

 


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